【2010年6月24日】
「古今にこれなき大手柄」
細川忠興は大坂夏の陣での真田幸村の活躍について、こう書き残している。
真田幸村。
父・昌幸とともに紀州の九度山に配流され、ただ死ぬのを待つ身であった。
そこに、豊臣家の密使が来る。「大坂城に入って、一緒に戦って下さい」と。
幸村48歳。
「人生50年」といわれた時代の48歳だ。今の社会の48歳と同じにしてはいけない。幸村は晩年そのものだった。
「このまま死ぬのか」
その絶望感に、うっすらと陽が差した。
幸村は九度山を脱走した。
大坂城には「金銭の遺産」と「人間の遺産」があった。
「金銭の遺産」とは秀吉が遺した莫大な金銀のことで、「人間の遺産」とは10万人以上いるといわれた「豊臣浪人」のことである。
幸村はこの2つの遺産を見て
「これなら4、5年は籠城出来る。オレが籠城戦を指揮すれば、必ず勝てる」
と思った。
が、幸村に指揮権は与えられなかった。
実績が無いのである。
今の社会なら実績0でも能力があれば「おまえ、この仕事やってみるか?」となるが、この時代は実績=能力なのである。
実際、幸村に指揮権が与えられれば本当にどうなったかはわからない。
いえやっサンが長引く籠城戦の最中に「お迎え」が来るケースも十分あり得た。しかしそうはならず、結局大坂城は講和のあと濠を全て埋められて裸城にされた。
これでほぼ決着が見えてしまった。
が、夏の陣を起こす前、いえやっサンは幸村に手紙を書いている。
「信濃一国(いまの長野県全域)を与えるから、徳川に付かぬか」
信濃一国は50万石。
何の実績も無い幸村に50万石。
本当に与えるつもりだったかどうかは疑わしいが、これはいえやっサンが実績=能力とは見ずに能力だけを見て幸村を評価したものだ。
夏の陣を迎えるにあたり、幸村は
「完全燃焼したい」
と強く思った。
どうせ討ち死にしか残っていない。
だったら、本当に完全燃焼して死にたい。
幸村はいえやっサンの本陣に突撃した。
突撃は3回に及んだ。
いえやっサンの首こそ取れなかったものの、あと一歩まで追い詰めた。
「古今にこれなき大手柄」
細川忠興は完全燃焼した幸村がうらやましかったのだろう。
忠興も伊達政宗も、大坂の陣のあとは幕府にペコペコし続ける人生だった。
そんな人生を送った忠興だからこそ、幸村を褒めたのだと思う。