【2010年5月25日】
新撰組や白虎隊の上司として知られているので「武断派」のイメージが強いが、政治家としての一面もある人物だ。
秘密の勅命であったことから
戊午の密勅
と呼ばれる。
たとえそれが密勅であれ勅命は勅命である。水戸藩の連中は「自分たちが正義だ」と主張した。
そしてその主張を桜田門外の変という形で実現した。
「赤鬼覚悟!」
水戸藩士・関 鉄之助の指揮のもとに大老職・井伊直弼を襲撃し、井伊を駕籠から引きずり出して首をもいだ。
井伊は日米修好通商条約締結の総責任者だ。攘夷一辺倒の水戸藩の連中にとっては「違勅」そのものの存在だった。
関 鉄之助たちの行為は朝廷から見たら「是」であるが、幕府から見たら当然「非」である。
幕府は朝廷から政権を委任される形で幕政(国政)を執っていた。なので、朝廷が勝手に一部の藩に直接勅命を下すと幕政が混乱してしまう。
朝廷から見たレジテマシーでは井伊殺害は正しいのだが、幕府から見たレジテマシーでは井伊殺害は謀反なのだ。
幕府は水戸征伐を検討した。御三家といえども勝手に勅命は受ける、大老職の人間を殺害するでは放置しておくわけにはいかないのだ。
しかし、水戸藩には勅状がある。幕府は朝廷から政権を委任される形を取っている以上、同じく朝廷から勅命を受けている水戸藩を反逆者扱いすることは出来ないのだ。
この問題を決着させたのが松平容保だった。
容保は水戸藩に
「今、あなたたち御三家と幕府は争っている場合では無い。日本国内でそんな争いをしていたら、日本は列強の植民地にされてしまう」
と言った。
そして容保は
「勅状を幕府に返納なさいませ。朝廷の御意思が2つあるなど、間違いのもと」
と続けた。
水戸藩では容保の要求通り勅状を幕府に返納した。これ以降、水戸藩では反幕行為や単独攘夷の行動は見られていない。この一件から、「政治家・松平容保」の片鱗を見ることが出来る。
幕府はこの一件で容保を高く評価した。
その評価が、容保の京都守護職就任のきっかけになってしまう。
容保の京都守護職就任は勢いづいた新撰組の行動を加速させ、戊辰戦争ではたくさんの女性や少年たちを死なせた。
松平容保の不幸は「徳川家から見たレジテマシー」から抜け出せなかったところにある。