【2010年5月21日】
庄内丸岡地区に「鯉もち」という料理がある。
鯉の身をほぐし、餅・しいたけ・ごぼう・ねぎを入れてしょうゆで味付けする汁物だ。
山形には有名な「芋煮」がある。山形の人はしょうゆ味が好きなんだなあ。
山形の人に限らず、日本人はみんなしょうゆ味が好きだけどな。
で、この「鯉もち」、加藤忠広が食べていたといわれている。
加藤忠広は加藤清正の息子で、はじめ肥後熊本54万石の大大名だったが、幕府の取り潰し政策に引っかかって庄内の丸岡に1万石を与えられ、そこで軟禁生活を送った。
軟禁生活は22年に及び、「暖かい熊本に帰りたいなあ」と願うことが多かった。
が、その願いは叶わず、忠広は庄内丸岡の地で53歳の生涯を閉じた。
幕府は由比正雪が騒動を起こすまで
「外様など、あるだけ迷惑」
という政策を取り続けた。
不祥事をでっち上げて取り潰す陰湿なやり方で外様大名を整理した。
加藤忠広の場合は、忠広本人ではなく、息子の光正を罠にかけて取り潰した。
罠を仕掛けたのは土井利勝である。
忠広は生前、
人間万事唯無常
身似明星西又東
三十六年如一夢
覚来荘内破簾中
と一詩書き遺している。
36歳のときに書いたのであろうが、本当に「一夢の如し」だったのだろうと思う。
幼くして肥後熊本54万石を相続し、牛方馬方騒動で頭脳と精神をすり減らし、最後は息子・光正が幕府の罠にかかって54万石を取り潰された。
そして温暖な熊本から肌寒い庄内へと身柄を移された。目まぐるしい36年を「一夢の如し」と表現したのであろう。
忠広の軟禁生活は外出以外は全て自由が認められていて、かなり伸び伸びとした生活を送っていたことが伝わっている。加えて、忠広の身の回りの世話は庄内藩酒井家の人間ではなくて熊本から連れて来た家臣がしたので、気持ちの面では軟禁とは程遠い気楽さがあった。
忠広は気楽であったが、忠広の息子たちはそうはいかなかった。
まず、取り潰しの原因となった光正は飛騨高山の金森家にお預け処分となったが、飛騨に向かう途中舌を噛み切り自害した。
もう一人の息子・正良は信濃松代の真田家にお預けとなり、忠広の死後自害した。
忠広は庄内丸岡でこっそりと1男1女をもうけた。
このうち、1女のほうの子孫の方々は今日も健在でいらっしゃる。
光正と正良は自害したが、庄内でつくった子供の血筋は残った。