【2010年5月12日】
「明石大佐」と呼んだほうがいいかも知れないこの男は、福岡藩士・明石助九郎の次男として生まれた。
明石助九郎は2,000石の藩士だったが、若くして自害している。「勤王か?佐幕か?」のゴタゴタに巻き込まれたのだといわれているが、動機ははっきりしない。
家族を不幸なかたちで失うという点では、児玉源太郎と共通している。児玉源太郎も実の兄を目の前で斬殺されている。
明石はフランス語と製図で優秀な成績を残したが、あとの科目ではパッとしなかった。
運動神経ゼロ。
風呂に入らない。
歯を磨かない。
毎日同じものを着る。
これだけ書くと明石は「欠陥人間」に見えてしまうかも知れないが、明石には一つだけ誰にも負けない長所があった。
それは、
集中力が途切れない
というものだった。
ある時、対露戦略について山縣有朋に問われたことがある。
明石は答えることに熱中するあまり、尿意をもよおしていることを忘れて山縣に話し続けた。
明石はとうとう失禁してしまうのだが、当の明石がそれに気付かない。自分がおしっこを漏らしていることさえ忘れて山縣の前で立ち続けて喋るのだ。
山縣もあまりに真剣に喋っているので失禁を指摘するわけにもいかず、最後まで話を聴いた。
こんな明石に、山縣と同郷(長州)の田中義一が目をつけた。
田中はやはり同郷の児玉源太郎に
「面白いヤツがいる。会ってみないか?」
と明石を紹介した。
児玉は明石の「集中癖」に目をつけた。
児玉は明石に
「100万円やるから、ロシアを後ろから引っ掻き回して来い」
と命じた。
100万円。
当時の国家予算が2億5000万円程度の時代の100万円。決して小さな額ではない。明石はこの100万円でロシアの後方攪乱に集中した。
ロシアをポーツマス講和会議に引きずり出す決め手となったのがロシア国内で起こった「血の日曜日事件」だ。この事件がロシアにとってジワジワとボディブロウのように効いたのだ。
その「血の日曜日事件」の仕掛け人が明石元二郎。明石は見事に児玉の期待に応えた。
明石はのちに陸軍大将まで出世したが、日露戦争の話になると
「おまえにオレの気持ちはわからんよ」
と周囲に漏らした。
明石も「軍人らしく、軍功を」と思っていたのだろう。