もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

弘前公園(弘前城)

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【2010年4月30日】

天明3年。

この年、弘前藩は大飢饉に見舞われる。

天明の飢饉だ。

死者8万人。

餓死者の他、病死者も多数出た。

何故飢饉が起こるのか?

飢饉が起こるかどうかは、その前の年の作物の出来具合と蓄えで決まる。

前の年に豊作なら、それを備蓄しておけば次の年に不作でも飢饉は起こらない。

弘前藩のみならず、東北諸藩はコメをことごとく売り払ってカネに換えることを常態とした。

蓄えるより、売っ払ってカネに換えたほうがいいと考えたのだ。

江戸時代も中期以降は地方にも貨幣経済が浸透し、そのため藩も農民も「カネ、カネ」となったのである。

江戸時代の農民のイメージというと、時代劇等のイメージがあってすぐに「貧しくてかわいそうな人」と想像してしまうが、実際は豊かだった。

弘前藩の表高はこの当時5万石。これに対し実高は20万石を越えていた。不作・凶作にならない限りは豊かな生活を送ることが出来るのだ。

弘前藩をはじめ、東北諸藩を悩ませたものに

冷夏

がある。

東北諸藩は度々冷夏に襲われ、そのために大きな飢饉に見舞われた。

しかし、最初に書いた通り、蓄えがあれば飢饉にはならないのだ。

その蓄えを、藩も農民も売っ払ってしまう。これは藩も農民もすっかり貨幣経済の中で消費者になってしまったことを意味する。

弘前藩の飢饉は人災だ。

蓄えを全てカネにしたためにコメが無くなり、その結果8万人もの人たちが亡くなられた。

一方で、米沢藩白河藩天明3年に飢饉は発生していない。コメをしっかり蓄えていたので、不作・凶作になっても蓄えを食べて飢えることは無かった。

その藩が「重農」だったか「重商」だったかによって飢饉になる、ならないの分かれ道だった。弘前藩は「重商」、米沢藩白河藩は「重農」だったと言える。

飢饉には人災によるところがあり、それは皮肉にも東北が「コメどころ」だからという側面もあった。当時から東北のコメは人気が高かったのだ。

だから東北諸藩は「蓄えるより目先のカネ」でコメをどんどんカネに換えた。

しかし、飢饉で「重商」の流れが変わることは無かった。

天明7年にコメ不足から江戸で打ち壊しが発生すると、弘前藩は江戸に粟・稗まで売っ払って大儲けして飢饉で疲弊した藩を建て直した。