【2010年4月19日】
東北地方は大飢饉が何回かあった。
そのたびに藩領内に大きな被害が出た。
久保田藩も例外ではない。天明・天保と大きな飢饉に見舞われた。
「倒れた馬にかぶりついて生肉を食い、行き倒れとなった死体を狼や鳥が食いちぎる」
と記されている。
死んだ馬をろくに火を通さずに食べるもんだから、そこから病気が流行る。
餓死者と病死者が転がっているところに狼や鳥がその遺体を突ついたり食いちぎったりするのだ。まさしく地獄絵図だ。
さらに、『秋田飢饉誌』は
「午前10時になると、久保田城下には200人以上の浮浪者が現れる。夜は物騒で外出など出来ない」
と記している。
久保田城下に現れる浮浪者は飢えた農村の人たちだ。天保の飢饉ではたくさんの農民が浮浪者となった。
天保5年。
この年が一番ひどかった。
この年は低温の日が続き、ほぼ1年肌寒い日が続いた。
夏場の農作業は暑さで大変なものなのだが、この年は夏なのに寒さで手がかじかむ有り様だった。
良くて半作。軒並み不作だった。
当時の久保田藩の人口は40万人。このうち10万人が餓死または病死した。人口の4分の1が死んだのだ。
一揆の参加者5,000人。彼らは首謀者が誰かわからないよう
傘連判
という書式の連判状を用いた。
これは参加者の名前を円状に記入するもので、誰が首謀者なのかパッと見にはわからないようになっている。
藩の役人は首謀者「らしき」者を逮捕するのだが、何せ連判状が傘連判なので首謀者「らしき」の域を出ないのだ。だから裁判も出来ない有り様だった。
一揆は藩の役人の手に負えるものではなく、とうとう藩主・佐竹義厚が自ら北浦地区に出向いて農民たちに謝罪した。
藩が農民に屈した瞬間だった。
205,800石の威厳は国許ではまるで無かった。