【2010年4月14日】
一柳直末。
秀吉が長浜城主になった頃からの家臣だ。
あだ名を「熊」という。
怪力だったことからこのあだ名が付いた。
秀吉にかわいがられ、主要な合戦には全て従軍している。
この「怪力熊男」は秀吉のもとで美濃軽海西6万石を与えられて大名になった。外様小大名として続いた一柳一族の原点がここだ。
直末は小田原攻めの際、山中城という城を攻撃中に北条軍に射殺された。
跡を継いだのは弟の直盛で、秀吉から半知の3万石の相続が認められて美濃軽海西から尾張黒田に国替えとなった。
直盛は関ヶ原では迷わず東軍に付いた。
小大名は勝つ方に付かなければ、明日、ごはんを食べることが出来ないのだ。
戦後、いえやっサンは直盛に伊勢神戸5万石を与えた。いえやっサンは早くから播磨と伊勢を重要視していたので、たとえ5万石でもそれはいえやっサンが直盛の戦功を評価していたことがわかる。
さらに直盛は伊勢神戸から伊予西条6万石に加増された。
直盛の死後、伊予西条6万石は3つに分割された。
長男・直重
伊予西条3万石
次男・直家
播磨小野2万石
三男・直頼
伊予小松1万石
次男・直家の播磨小野藩というのは、直盛が伊勢から伊予に国替えになる際、伊予西条に5万石・播磨国内に1万石という内訳だったことによる。
直重は無難に西条藩主を務めたが、次の直興がいけなかった。
直興は京都で与えられた幕府の役目をおろそかにしたり、仮病を使って参勤交代をサボったりした。
幕府はついに西条藩を取り潰し、直興は身柄を加賀藩にお預けとなった。直興は金沢で死んだ。
西条藩には徳川光貞の弟・松平頼純が3万石で入封し、明治まで松平家が支配した。
直興は改易されたが、直興は家督相続の際に弟・直照に5,000石を分知していて、この系統が続いたため直重の血筋は絶えなかった。
直家の播磨小野2万石と直頼の伊予小松1万石は明治まで続いた。
長浜で秀吉に見出された「怪力熊男」。
その子孫は小さいながらも大名として存続し、その子孫の方々は今日も健在だ。