【2010年3月15日】
「藤堂・山内は外様なれど准譜代」
幕府は藤堂家と山内家を「譜代に准ずる家」として扱った。
これは、関ヶ原のときに藤堂高虎と山内一豊がいえやっサンに豊臣家の内部情報を提供したためだ。
山内一豊はこのおかげで遠江掛川5万石から土佐一国・浦戸20万石(のち高知24万石)に加増され、国持大名に出世した。掛川城が「出世城」と呼ばれる所以である。
徳川幕府は大名を
家門・譜代・外様
の3つに色分けした。
家門というのは徳川一族のことで、学校の教科書で「親藩」と呼んでいる藩のことだ。
彼等は石高の大小はあれ、徳川一族という名誉があった。
譜代とは関ヶ原以前から徳川家に仕えている連中のことで、「御譜代」と「御」を付けて呼ぶのが普通だった。
ごく一部の例外を除いては、幕府の役職は譜代大名しか就くことが出来なかった。
また、
館林から来た柳沢吉保
外様とは関ヶ原以後徳川家に仕えた大名で、読んで字の如く「よそ者」のことである。
よそ者なので幕府の役職に就くことは出来ず、幕政に口を出すことも出来なかった。
外様は家光将軍の頃までにある程度整理され、外様大名の数は大名全体の半分以下だった。
「藤堂・山内は准譜代」
これは幕府の外様支配政策の一つでもあった。
完全に明確な階級の色分けをするよりも、一つの階級の中に違う階級の者がいるほうが支配される側はキツいのだ。
隠密や御庭番に代表されるように、徳川幕府は「監視体質」「スパイ体質」の色濃い政権だった。外様の中に准譜代の者を混ぜることで支配しやすくしたのだ。
効き目はあった。
外様同士で団結するようなことは無く、謀反沙汰が起きることも無かった。
幕末、土佐藩の勤皇の連中が他藩の勤皇の連中と酒を飲むと
「おまえの藩は、関ヶ原では東軍だったじゃないか」
とからかわれることがあった。
これを言われるとき、土佐藩の勤皇の連中は一番気まずく一番恥ずかしかった。
「准譜代の家格」の後遺症は、幕末になって出たのだ。
譜代も外様も無い世の中を作ったのが、土佐出身の坂本龍馬だった。