【2010年3月12日】
森家改易後、津山藩は一時期空白地となったが、松平宣富が10万石で入封して幕末まで続いた。
森家支配の頃は美作一国・18万6千石がまるまる津山藩の領地だったが、松平宣富は美作一国は与えられず美作のうち10万石を与えられた。
この松平宣富という人は松平光長の養子だ。
松平光長。
松平光長はもとは越後高田24万石の大名で、家格は「御三家に次ぐ」とされた人だった。
徳川綱吉には奇行があり、それを知っていた光長は江戸城内で綱吉に対し面と向かって
「この人格破綻者め」
と暴言を吐いた。
綱吉が家綱将軍の実弟であろうと、光長は「御三家に次ぐ」と公認されているのだ。だから綱吉はその場では我慢するしかなかった。
その場では、だ。
ところが、状況が変わった。
徳川綱吉が五代将軍に就任したのだ。
綱吉将軍は光長に報復した。
「高田藩主・松平光長、家中不統一により改易。身柄は伊予松山藩にお預けとする」
高田藩はお取り潰し。光長は「権現様曾孫・松平越後守様」から「罪人・松平光長」に落とされたのだ。
数年経って、光長は赦免されて名誉を回復した。
養子・宣富は美作津山10万石を与えられ、光長同様越後守を名乗ることを許された。
津山藩松平家は代々「越後守」か「三河守」を名乗る。どちらも津山藩主にだけ許された名乗りだ。
「越後守」は光長が、「三河守」は光長の父・松平忠直が名乗っていた受領名だ。
よく、結城秀康の系統の松平家の本家は福井と津山のどっちだ?なんて話をする人がいる。
「福井を本家、津山を宗家」とする人が多い。
幕府の都合から見たら福井藩が「秀康系松平家」の本家だが、血筋でいくと「兄筋」である津山藩が本家となる。
そこで幕府は苦し紛れに「福井を本家、津山を宗家」としたのだ。
似たようなケースは池田家で、結局幕府の都合で「鳥取を本家、岡山を宗家」として扱った。
鳥取藩祖・池田光仲の父・忠雄は池田輝政といえやっサンの娘・督姫との間に生まれた。そのため、池田利隆は忠雄の異母兄であるにも関わらず「本家」ではなくて「宗家」なのだ。
忠直、光長と「反逆児」が続いたために「本家」になりそびれた津山藩松平家。
松平宣富は、どんな気持ちで光長の後を継いだのだろうか。