【2010年3月11日】
堀田正盛。
家光将軍の代の老中職(国務大臣)で、家光将軍が死去すると殉死した。
正盛は最後は下総佐倉11万石までに出世したが、佐倉藩主になる前、信濃松本藩主だった。
松本藩主のとき、10万石を与えられた。
10万石の老中職。
さぞかし毛並みの良い譜代大名かと思いきや、もとは身分の低い者の家の子供だった。
が、彼は血筋が良かった。
彼の母親は稲葉正成の娘である。稲葉正成はお福(春日局)の旦那さんだ。
と、言っても、正盛の母親はお福の娘では無く、前妻の娘である。
しかし、お福は大奥及び幕府内で稲葉一族の栄達を図るため、たとえ自分と直接の血の繋がりが無くても正盛及び堀田家を利用しようと考えた。
これは秀吉が浅野・杉原両家を肉親同様にしたのと似ている。
堀田正盛はお福のやや遠い親戚ということで出世した。
お福はさらに
「正盛どののお子たちのうち一人、私の養子にもらえませんか」
と正盛に頼んだ。
お福は堀田家を完全に「稲葉一族」にしてしまえ、と考えたのだ。
養子に出された正俊は、のちに綱吉政権樹立の立役者となった。
正盛は「稲葉一族」として異例の出世を果たした。
松平信綱は知恵と才覚で首席老中・武蔵川越7万5千石まで出世したが、堀田正盛は縁故頼みで信濃松本10万石まで出世した。
お福の実子・稲葉正勝も相模小田原10万石。
お福は幕府内に「稲葉ファミリー」というブランドを作り上げた。稲葉・堀田両家は幕末まで老中職をはじめとし、重役就任者を何人も出した。
堀田正盛が松本10万石を与えられたことで、幕府内外に「稲葉ブランド」の大きさを見せつけることになった。
それもこれもお福が家光将軍から絶大な信頼を得ていたからである。
正盛はそれをよく心得ていた。だから、家光将軍が死去すると殉死したのだ。
ゆくかたは
くらくもあらし
時をゑて
うき世の夢の
明ほのゝそら
さりともと
おもふもおなし
ゆめなれや
たゝことの葉そ
かたみなるらむ
堀田正盛の子・正俊は綱吉政権樹立後、勝手掛老中職を経て大老職まで上り詰めた。
「稲葉ファミリー」は正盛の殉死によってそのブランドの影響力を盤石にした。