もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松山城

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【2010年3月11日】

「あんなこと、言わなけりゃよかった…」

前越後高田藩主・松平光長は罪人として伊予松山へ護送される道中、そう思った。

松平光長は「越後騒動」の責任を問われて高田24万石を改易され、伊予松山藩久松松平家に身柄をお預けという処分となった。

「越後騒動」というのは高田藩の後継藩主を巡る御家騒動で、はじめこの騒動は大老酒井忠清が裁いた。忠清は裁くうえで公平を期すために、渡辺綱貞に正確な調査報告書を作成させた。

綱貞の報告書は公平・中立の保たれたもので、忠清はこの報告書に沿って判決を下した。

ところが、館林藩主・徳川綱吉が五代将軍に就任すると、突然

「越後騒動の裁判をやり直す」

と大声で宣言した。

綱吉将軍は阿部正武に調査報告書の作成を命じた。阿部正武は光長とは犬猿の仲だ。判決の中身は光長にとって有利なはずは無い。

綱吉将軍は酒井忠清と正反対の判決を下し、松平光長は「家中不統一」を理由に改易された。

光長は伊予松山で1万俵の生活費を与えられた。

「権現様曾孫」という名誉は剥奪されたが、生活面では不自由しなかった。

それでも、改易された光長の精神的ショックは大きかった。

「越後騒動」の裁判やり直しは綱吉将軍が明らかに光長を狙い撃ちにしたものだ。

まだ綱吉将軍が館林藩主だった頃、光長は綱吉に対して

「この人格破綻者め」

と暴言を吐いたことがある。綱吉に奇行があったためだ。

また、「御三家に次ぐ家格」とされながらも松平姓のままであるのに対し、「トンチキ坊ちゃん」の綱吉は徳川姓を与えられていることにも不満を感じていた。同じいえやっさんの曾孫なのに、だ。

それが「人格破綻者」発言につながり、綱吉嫌いの酒井忠清と手を組む一因にもなった。

綱吉将軍は「人格破綻者め」と言われたことを忘れてはいなかった。

「誰の目から見ても公平な裁判」

酒井忠清が行なった最初の裁判は渡辺綱貞が作成した公平な報告書による公平な裁判で、公平な判決が下された。

その判決を、綱吉将軍は阿部正武の作成した不公平な報告書をもとにひっくり返した。

余程許せなかったのだろう。高田藩お取り潰しは全ての大名に「まさか」という衝撃を与えた。

渡辺綱貞は綱吉将軍の下した判決に抗議のハンストを行い、そのまま餓死した。