もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

島原城

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【2010年1月13日☆】

「上様、板倉どのが上使(総大将)では九州の大名は下知(命令)に従いますまい」

島原の乱発生時、柳生宗矩はこう言って板倉重昌の島原派遣に反対したが、家光将軍は自分のお気に入りである重昌に功名を立てさせてやりたいという思いから重昌の島原派遣を断行した。

宗矩の不安は当たった。

九州の大名は、重昌の言うことなど聴かないのだ。

九州の大名は外様とはいえ

細川忠利

540,000石

黒田忠之

523,000石

鍋島勝茂

357,000石

有馬豊氏

210,000石

立花宗茂

119,600石

と、みな大身だった。

板倉重昌三河深溝12,000石。これは細川や黒田の家老よりも低い石高だ。

そうなると、九州の大名は「あんな小身の言うことなど聴けん」となる。そして彼等は重昌を馬鹿にするようになった。

これに耐えかねた重昌は1月1日という一番めでたくて縁起の良い日に原城総攻撃を行い、頭部に銃弾を受けて戦死した。

松平信綱は重昌戦死後に島原に到着した。

信綱は重昌と違い、幕府老中(国務大臣)として島原に派遣された。九州の大名は今度は信綱の言うことを聴いた。

信綱は「総攻撃を!」という九州の大名の要求に対して

「少しの間、じっとしていてくれ」

と言って陣を堅く守って動くなと命じた。

信綱は数日かけて原城の様子を探り、兵糧が乏しいことを知った。信綱は徹底した兵糧攻めに作戦を切り替えた。

そして空腹に耐えかねて原城を脱走した農民2名を斬って胃の内容物を確認した。

胃には海藻しか入っていない。信綱はこれで原城総攻撃を決断した。

一揆軍死者3万人。

このうち、天草四郎をはじめとする1万人は晒し首となった。信綱は「皆殺し」を命じたのだ。

幕府軍死者は2千人、負傷者は1万人で大坂の陣を除けば「ヨロイカブト」の時代の合戦での死傷者としては最悪の人数となった。

島原の乱のもともとの原因は、島原藩主・松倉勝家の苛政にあった。

度を超した重税のうえに厳しいキリシタン弾圧。

キリシタンを生きたまま炭火の上でバーベキューにしたり、同じく生きたまま雲仙の火口に放り込んだりした。

松倉勝家に対する処分は

判決、斬首

だった。

切腹ではなくて、斬首。

幕府は松倉勝家を官位を持った大名としてではなく、罪人として処刑した。