【2010年1月8日】
松江藩に
御七里
という役職があった。「飛脚七里」とも呼ばれ、江戸と松江を往来する飛脚をこう呼んだ。
直政が信濃松本から他国に国替えになる話が出た際、直政は
「私の官名は出羽守だから、山形への国替えを希望する」
と幕府に伝えた。
が、希望は聞き容れられず出雲松江への国替えとなった。
直政は家光将軍からの信用があり、家光将軍も希望を聞いてやれなかったことに済まない気持ちを持っていた。
直政は家光将軍に
「今度赴任する出雲松江は山陰の端っこで、上様の安否も私自身の安否も数日かけないと届きません。どうしたらよいものでしょうか」
と言った。
家光将軍は
「ならば、江戸と松江の道中に七里(27.3km)ごとに飛脚を置けばよい。何事かあれば、飛脚が知らせればよいではないか」
と言った。
こうして松江藩に御七里という役職が置かれた。
初め御七里は松江藩のみに許可されたが、のちに他の御家門大名が設置を願い出て許可された。尾張・紀州も御七里を設置した。
設置の経緯から、他藩の御七里よりも松江藩の御七里の方が格上とされた。
御七里はただの飛脚では無い。
藩主と直に接触するため、体力の他に知力と人柄を要求された。
このため松江藩の御七里は悪評の記録が他藩に比べて少ない。
それは代々
「松江の御七里はただの飛脚でも無ければ他藩の御七里とも違う。誇りを持て」
と受け継がれて来たからだ。
乱暴狼藉当たり前。何かにつけて「我等は御三家の御七里なるぞ」と威張り散らす。
松江藩の御七里にも同様のことがあるにはあったが、他藩に比べたらはるかに少ない。
これはやはり御七里を設置した経緯によるものだろう。経緯ももちろんだが、もともと御七里は松江藩にのみ設置が許可されたものであり、その重みを松江藩が代々意識していたのであろう。
経緯ある役職。
でも、27.3kmも走るのは、イヤだなあ。