【2011年10月24日】
長岡護美。
護美は「もりよし」と読む。
肥後熊本藩主・細川斉護の六男で、初め長岡良之助と名乗った。
良之助は嘉永3年5月、下野喜連川藩主・喜連川煕氏の養子となり、
喜連川紀氏
と名を改めた。
喜連川藩は確かに「藩」なのだが、石高は5,000石だ。
もともと、旗本でさえ無い。何故なら、この家はもともと足利家なのである。
室町幕府は関東に出先機関があって、この喜連川家はもともと古河公方足利家だった。しかし、北条氏康に倒されて下野喜連川に落ち延びた。その際、足利姓を捨てて喜連川姓に変えた。
いえやっサンはこの経緯を知っていて、「喜連川は制外の家」とした。いかにも「名門・名家好き」のいえやっサンらしい。
江戸時代中頃、喜連川家は「制外」から格式10万石を与えられ、幕府の中の一大名に組み込まれた。
格式10万石とは、国持大名として扱うという意味だ。だから喜連川家は5,000石でも大名なのである。
喜連川紀氏はそんな名家を継ぐはずだった。
しかし、紀氏少年は「喜連川家を継ぎたくない」と思っていた。
理由は、この当時の社会情勢にある。
尊皇攘夷真っ只中。
尊皇の連中は、かつて後醍醐天皇を吉野の山奥で死ぬに任せた足利尊氏及び足利一族を「悪」と断罪することで尊皇の正当性を主張していた。
「こんな御時世に喜連川家を継いだら、オレまで殺されてしまう」
紀氏少年はそう思った。
安政5年2月16日。
紀氏少年は、喜連川家から脱走した。時に、紀氏少年17歳。
武者修行の出で立ちに変装し、喜連川からの逃亡を図った。
逃亡中、一軒の民家に身を隠した。しかし、これがマズかった。
振る舞いや言葉遣いがあまりにも上品なのだ。紀氏少年は武者修行の者に上手く化けることが出来なかった。
不審に思った民家の者が喜連川家に通報し、紀氏少年は連れ戻されてしまった。
連れ戻された紀氏少年は自分の意思を喜連川家の家臣たちに伝えた。
意思は変わりそうにない。そう判断した喜連川家は4月になって「紀氏公、御病気に付き離縁」とし、紀氏少年を熊本に帰した。
熊本に戻った紀氏少年は長岡姓に復姓し、
長岡護美
として人生の再スタートを切った。細川家では庶子は長岡姓を名乗る。
護美は大政奉還後、明治政府の参与となった。
時が流れて明治13年、護美は外務省に入省。ベルギー公使、オランダ公使を歴任した。