【2011年10月18日】
元和5年6月。
安芸・備後49万8千石を取り潰す処分なのだが、この取り潰しが弘前藩に飛び火した。
幕府は
「福島左衛門大夫には陸奥弘前に新知4万5千石を与え、陸奥弘前の津軽信枚には信濃川中島10万石を与える」
という国替えの沙汰を出した。この国替えにびっくりしたのが弘前藩主・津軽信枚だった。
信枚は
「津軽は父祖伝来の地。いくら幕府の命令とはいえ、これは酷い…」
と、頭を抱えてしまった。
さらに信枚を困らせたのが、弘前藩領民が国替えを知って騒ぎ始めたことだ。
領民たちは
「福島左衛門大夫入封反対!」
と弘前城下で騒ぎ始めたのだ。
困った信枚は幕府高僧・天海に相談した。天海と信枚は親しい間柄で、弘前という地名の名付け親も天海だった。
天海は
「幕府は信枚どのを試しておられるのであろう。何せ信枚どのの側室は石田治部少輔の娘。加えて、治部少輔の倅を匿って家老にまでされた。津軽は徳川に仕える気はあるのか、と」
と信枚に話した。
天海は信枚に幕府へ誓紙を書くよう勧めた。
信枚は勧められるまま「4万5千石のまま、10万石の役目を果たします」と幕府へ誓紙を書いた。
天海のアドバイスは的確だった。
福島正則は川中島で死去。その後、4万5千石は収公されて大名としての福島家は消滅した。
外交上手の大名としては肥後熊本藩細川家がよく知られているが、弘前藩津軽家もなかなかの外交上手だった。幕府内には天海、京都には五摂家の近衛家と中央にしっかりパイプを作っていたのだ。
雪深い辺境の地・津軽。
石田三成の遺児を家老にし、側室にする大胆さは外交上手あってのこと。