【2011年10月17日】
「100万石か、大坂城」
この要求をしたために破滅した大名は3人いる。
まず、越後少将松平忠輝がこの要求をして越後高田75万石を棒に振った。
大人しく高田75万石で収まっていれば良かったのだが、「100万石か、大坂城」と要求したためお取り潰しとなった。
のちに忠輝は信濃高島藩諏訪家にお預けとなり、90歳過ぎまで生きた。
忠輝の身の回りの世話は家臣2人が担当したが、お先真っ暗で、しかも自分たちより忠輝のほうが長寿だったのだから、この2人もやりきれなかっただろう。
次にお取り潰しになったのは越前宰相松平忠直で、こちらも「100万石か、大坂城」と要求したばっかりに越前福井50万石を棒に振った。
忠直の場合、忠輝とは真逆であった。忠輝は大坂夏の陣に遅参したうえ、参陣の道中で旗本2人を殺害するという問題行動を起こしたが、忠直はその正反対で、夏の陣では真田幸村を討ち取る等の大奮戦だった。
しかし、戦後、忠直に与えられたのは「初花」という茶入れ一つだけだった。
「オレはあれだけ戦ったのに!」
その怒りと不満が「100万石か、大坂城」という要求につながり、取り潰された。忠直は豊後国津守というところへ流刑となり、そこで子供を3人ばかりつくって死んだ。
三人目は駿河大納言徳川忠長で、これは母親に甘やかされたマザコン坊やが何でもワガママは聞いてもらえると思い、
「兄上が征夷大将軍なのですから、私にも100万石か大坂城を下さい」
と要求したためにお取り潰しになった。
もともと、忠長のワガママに対して土井利勝は苦々しく思っていて、この要求が出されたとき利勝は駿河50万石の取り潰しを決めた。
忠長は忠輝や忠直とは違い、賜死となった。
幕府も初めは大坂に藩を置こうと思った。
そこで、初代大坂城代に松平忠明を任命し、大坂の陣で荒廃した大坂の町を復興させ、折りを見て大坂城代から大坂城主にしようと思った。
ところが、ナニワっ子たちが抵抗する。
「関東はえげつないで。あんなやり方しよって。太閤はんもあの世で浮かばれんで、ホンマ」
関ヶ原から15年かけて豊臣家を滅ぼしたやり方に、ナニワっ子たちは「徳川アレルギー」になってしまったのだ。
「大炊頭どの、あそこに藩は無理じゃ」
とありのままを伝えた。
こうして大坂は天領となり、城には城代が置かれた。