【2011年10月13日】
池田継政離婚事件。
これは、元文2年10月5日に起きた離婚騒動で、この騒動が原因で以後47年間にわたり岡山藩池田家と妻の実家である伊達家が絶交・対立関係になったことから「事件」と呼ばれる。
池田継政は離縁の理由について、妻の実家である伊達家に対し
「奥方(伊達和子)については近年、気苦労になることが多く、いろいろ手を尽くしたけれど聞き入れてくれない。ついては心労のあまり私が病気になってしまった。それで奥方を離縁した。ついては今後、池田家と伊達家は絶交し、利根姫への挨拶も遠慮させていただく」
と書き送っている。
これは、利根姫が吉宗将軍の養女として妻・和子の兄である伊達宗村に嫁いでいるため、こまめに挨拶に行かなければならないが、その場において伊達宗村にいじめを受けるため、それに耐えられずに一方的に和子と離婚して伊達家とも縁を切るとしたものだ。
この手紙だけみれば、大名階級からは同情されない。一方的で非常識な離縁だと言われてしまう。
しかし、池田家側の記録に聞き捨てならないというか見落とせない記録が残っている。
離縁の場合、どこの大名家の記録も「故あって離縁」とサラッと書いてそれでおしまいなのだが、池田家の伊達和子に関する記録には
「大炊頭(継政)夢にも存ぜずに、奥方懐妊つかまつり」
「密々流産つかまつり」
という記述が出て来る。
これは、和子がある岡山藩士と不倫関係になってしまい、妊娠してしまったことを指している。
また、「密々流産つかまつり」は不義に感づいた岡山藩が医師を用いて腹の子を水にしたことを指す。
こうなると、継政を一方的に悪いとは言えない。
継政が離縁に至った伏線は利根姫への挨拶の一件だろうが、決定打となったのはやはり和子の不倫・妊娠だ。
もともと、継政と和子は仲睦まじい夫婦だった。結婚5年後には嫡男・宗政が生まれ、少なくとも傍目には良好な夫婦関係に見えた。
しかし、利根姫への挨拶の一件はやがて和子との仲に亀裂を生んだ。そこへ、魔が差した和子が奥方付の藩士を抱いてしまった。
これが、本来伊達宗村に対して向けるべき恨み・憎しみを和子に向ける原因となった。
しかし、大もとの原因は、やはり伊達宗村なのだ。宗村が継政をいじめなければ、継政夫妻は上手く続いていたのだ。
だからだろうか。継政・和子ともに離縁後再婚していない。
池田家・伊達家の和解は離縁の47年後、天明4年6月のことである。