【2011年9月22日】
松平隠岐守定直。
伊予松山15万石の藩主である。
もとは支藩・今治藩の嫡子であったが、本藩に養子に入って15万石を相続した。
定直は宝井其角に師事するほどの俳句好きで、「三嘯」「橘山」「日新堂」の俳号を持っていた。
さらには、藩士たちと俳句つくりを楽しむ等、「俳句王国・松山」の土台を作ったとも言える。
この「俳句の殿様」に忠臣蔵事件が直撃する。
元禄15年12月15日。
幕府は松山藩に旧赤穂藩士(通称・赤穂浪人)10名の身柄預かりを命じた。
この日、定直は風邪で床に臥せていた。
家老・遠山三郎右衛門がこの幕命を伝えると定直は
「藩邸内の長屋に10人まとめてぶち込んでおけ」
と吐き捨てるように言って、そのまま眠った。
風邪の諸症状が定直をイライラさせたのだろう。定直は「俳句の殿様」とは思えないような乱暴な物言いをした。
12月16日未明。
大石主税以下10名は定直の命令通り松山藩邸内の長屋に放り込まれた。
しかし、すぐあとに江戸でこんな歌が流れた。
細川の
水の流れは
清けれど
ただ大海の
沖の濁れる
旧赤穂藩士の扱いを歌ったもので、細川家と水野家は彼等を丁重にもてなしたが、毛利家と松平家は彼等を罪人扱いしていると批判したものだ。
「大海」の「海」は毛利甲斐守の「甲斐」に、「沖」は松平隠岐守の「隠岐」にかけたもので、この歌を知った定直は主税たちへの扱いを恥じた。
そして、細川・水野同様、丁重にもてなすようになった。
年が明けて1月5日、定直は風邪が全快したので大石主税以下10名と対面した。
顔を見て、言葉を交わし、定直は改めて最初に罪人扱いしたことを恥じた。
定直は赤穂浪人贔屓の老中職・土屋政直に
「相模守どの、オレは彼等を死なせたくない」
と主税たちの助命を要請した。
土屋政直も同じ考えだった。だからこそ、赤穂浪人を預かった4家から待遇改善の伺いが出されたとき、「全て許可しろ」と幕府の役人に指示したのだ。
定直は土屋政直に期待していた。助命が叶ったときのためにと一分金500枚まで用意した。1人につき50枚だ。そこまで定直は預かった10人のことを思うようになっていた。
しかし、松山藩に幕府から命令が届く。「預かっている10人の親類届を提出せよ」と。
「やはり、ダメだったか…」
定直は落胆した。
定直は切腹のときまで10人を丁重に扱った。