もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

上田城

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【2011年9月12日】

松平伊賀守忠固。

幕末に勝手掛老中(次席老中)を務めた人で、阿部正弘と対立し井伊直弼を担ぎ出したことで知られる。

もとの名を、酒井玉助という。

播磨姫路15万石酒井家の長男として生まれたが、信濃上田5万3千石の藤井松平家に養子に出された。玉助17歳のときである。

玉助は

「オレは姫路藩を継ぐはずだったのに、こんな信州の片田舎のヒラ譜代の家を継がなきゃならないなんて…」

と思った。そして、その思いは玉助の腹の中でどす黒いトグロを巻いた。

そのどす黒いトグロをさらに大きくしたのが、実家の酒井家の嗣子・忠学が家斉将軍の娘・喜代姫と結婚したことだ。

「許せねえ…本来ならこのオレが姫路藩を相続し、このオレが喜代姫様と結婚していたはずなのに…」

どす黒いトグロはさらに増大した。

忠固は寺社奉行を皮切りに大坂城代を経て老中職に就任した。この出世のために大枚はたいた上田藩の財政はいっぺんに傾いた。

忠固はさらに、首席老中になることを望んだ。そのためには目の前の首席老中・阿部正弘を追い落とす必要があった。

しかし、これは失敗に終わり、盟友の老中職・松平乗全ともども罷免された。が、忠固のどす黒いトグロはこのままでは気が済まない。

阿部正弘の死後、首席老中・堀田正睦によって老中職に返り咲く。そして返り咲いた忠固は次席老中となり勝手掛兼帯となった。とうとう忠固は副総理兼財務大臣にまで出世したのだ。

しかし、それでもなお忠固の中のどす黒いトグロは満足しない。

忠固は堀田正睦の上洛中、近江彦根藩主・井伊直弼大老職にする工作をする。工作は成功し直弼は大老職に就任した。

「あの赤牛を操って、幕政を思いのままにしてやる」

忠固の中のどす黒いトグロは大老職への道を17歳で断たれたことへの不満で膨れ上がっていた。

「本来なら、このオレが酒井雅楽頭だ」

このどす黒いトグロが忠固の目を曇らせた。直弼を昼行灯だと思い、油断してしまったのだ。

確かに、井伊直弼には鈍重な雰囲気があった。そのため、忠固は油断した。

安政5年6月23日、井伊直弼は忠固と堀田正睦を罷免した。日米修好通商条約締結の際、勅許を得ずに条約締結をした責任を忠固・正睦両人になすりつけたのだ。

「赤牛!よくもやってくれたな!!」

忠固は目を真っ赤に腫らし、歯軋りを立てた。

罷免の翌年、忠固は急死した。

享年47。