【2011年9月6日】
延宝3年。
筑前福岡藩主・黒田光之は江戸にいた嫡男・綱之を福岡に呼び戻し、廃嫡した。
廃嫡の理由について光之は「幕閣からの評判が悪いから」と言っている。ここでポイントなのが「幕閣からの評判」であって、綱之が暗愚だとか人格に問題があるだとかそういう話ではないというところだ。
おそらく、光之にとっても不本意な廃嫡だったであろう。
幕閣のうち誰が光之に綱之廃嫡を強要したのかはわからないが、筑前一国・福岡52万石の太守が幕府から見て好ましくない人物では困るのは確かで、幕閣が綱之のどの辺を見て「好ましくない」と思ったかは不明だ。
綱之を廃嫡したことで、光之は綱之の弟で支藩・筑前東蓮寺5万石の藩主・綱政を世子に迎えた。綱之廃嫡により、綱之付の家臣36人が失職した。失職した綱之付家老の小河直常は「この恨み、必ず晴らす」と捨て台詞して福岡を去った。
綱政は藩財政建て直しに東蓮寺から連れて来た隅田重時という者を起用した。
この隅田は財政の専門家では無い。綱政の東蓮寺からの男色の相手だ。尻の穴で6,700石と財政担当者のポストを得たのである。
綱政の代になると、佐賀藩との間に国境を巡る争いが発生した。
加えて、財政建て直しのために発行した藩札が米価の高騰を招いたために藩札の発行を取りやめるというドタバタぶりだった。
綱政の藩政を見て、隠居の光之は後悔した。
いくら幕府からの圧力があったにせよ、「もし、綱之にそのまま跡を継がせたら…」という思いが日に日に強くなっていった。
とうとう光之は綱政の藩政に口をはさむようになった。そしてそれは、光之・綱政両人が死去するまで福岡藩を二分する内訌にまで発展した。
まず、廃嫡された綱之が福岡城下に身柄を移されて厳重に監視された。
また、綱之の面倒を見ていた立花重根(実山)を筑前鯰田に幽閉処分にした。どちらも綱政派の仕業だ。
宝永4年5月20日、反綱政派の筆頭である隠居・光之が80歳で死去した。
そして宝永5年。
まず、7月6日に綱之が毒殺された。次いで11月5日、立花重根が幽閉先で刺客4人に撲殺された。
その3年後の正徳元年6月16日。
福岡に帰国した綱政が急死した。反綱政派が国境問題や米価高騰の責任を取らせたのだ。
昭和25年、九大医学部による調査で綱政の遺体から大量の砒素が検出された。
反綱政派が飲ませたものである。