【2011年8月2日】
文政6年、岡山藩にとって長年望んでいた新田開発が完工した。この新田は児島湾を干拓したものだ。
興除新田
と名付けられた。
「興除」は中国の管子の「興利除害」から取ったものだ。
「興利除害」は「利を興して害を除く」という意味で、進んで人のために行動するという意味にもつながっている。
この「興利除害」の新墾田を開墾するまでに、岡山藩は大変な苦労をした。
享保7年、幕府は「私領一円の内以外の新田は天領とする」旨の法令を出した。
この「私領一円の内」の解釈を巡り、岡山藩は幕府と対立する。
岡山藩は児島湾内は岡山藩領なのだから、当然開墾した新墾田は岡山藩領であると主張した。
しかし、幕府は児島湾は海であり、陸地を離れているので「私領一円の内」とは認めないとした。
ここから、新田開発のための岡山藩の長い長い「戦い」が始まる。
岡山藩は藩を挙げて贈賄工作を始めたのだ。
岡山藩は江戸で幅広く贈賄工作を実施した。この「幅広く」がポイントなのだが、江戸時代の「賄賂の流儀」は高額の賄賂をドカッと一発渡すのではなくて、少額の賄賂を幅広く撒くことだった。これが、「お中元・お歳暮」の原点である。こんなことからも、現代日本人の原点が江戸時代にあることがわかる。
岡山藩の贈賄工作は宝暦年間からスタートする。
宝暦年間から40年程度経った寛政9年、幕府は岡山藩の新田開発を却下する。
しかし、岡山藩はめげない。贈賄工作を続行する。
そして、寛政9年から18年後の文政2年、岡山藩はとうとう新田開発の許可を勝ち取った。贈賄工作を始めてから50年以上の年月が経っていた。
根気よく、丁寧に。
これがこの当時の「賄賂の流儀」である。
50年以上。
気の遠くなるような年月だが、違う角度から見ると、賄賂は人付き合いの中でこそ生きるということでもある。
多額の賄賂をドカッと一発渡しても人間関係は築けない。それよりも、「お中元・お歳暮」を含めて少額の賄賂をこまめに続ける。こまめな贈賄を「お付き合い」と言い換えてもいい。
単に贈収賄という次元とは違う。「お付き合い」の中で出来上がっていく人間関係。岡山藩の新田開発許可もそうして勝ち得た。日本人の情緒社会の原点もまた、ここにある。
岡山藩興除新田の一件は人間関係の縮図の一端を見せてくれる。
そしてそれは、江戸時代の面白さでもある。