【2011年6月27日】
正保2年12月17日。
仇討ちをしたのは飯尾彦之丞、討たれたのは生駒帯刀である。
生駒帯刀は讃岐高松藩家老だった。
高松藩主・生駒高俊は男色のうえ藩政を顧みなかったため、高俊の無関心に付け込んで高松藩を私物化しようとする「逆意派」とそれに対抗する「御為派」が長年にわたり対立し続けた。
これを生駒騒動という。
初め、この騒動を訴え出たのは「御為派」だった。「御為派」は首席老中(のちの大老)・土井利勝に
「主君・高俊は男色のため奥に入らず、また、逆意派の連中に唆されて藩政を顧みようとしません」
と訴えた。
ただの御家騒動なら目をつぶろう。利勝は高俊の妻が自分の娘であることからそう思っていたが、「男色のため奥に入らず」とあるのを見て激怒した。
「高俊のヤツ、オレの娘を女として見ないつもりか!!」
利勝は「生駒家は潰してもよい」と思い始めた。
生駒家は高俊が家督相続した際まだ幼年だったことから、藤堂高虎・高次父子が監国(政治監督)として高松藩政を管理・保護・指導して来た。
藤堂高虎・高次父子も高俊の男色を諫めて来たが、いっこうに治らない。
生駒高俊は江戸・芝の蔭間茶屋(ホモ風俗店)で沢田右近という者を身請けして高松に連れ帰った。
この沢田はかなりの美少年で、高俊はますます藩政を顧みなくなった。
筆頭家老・生駒将監は「このままでは高松藩が危ない」と思い、沢田を殺害した。
沢田の殺害を知った「逆意派」は、今度は生駒将監に一服盛って報復した。その一服盛った下手人が飯尾宗兵衛だ。
生駒将監の跡を継いだ息子・帯刀はたびたび土井利勝に「逆意派」の罪を訴え出た。これに対し、「逆意派」は老中職・稲葉正勝に「御為派」の罪を訴え出た。
訴訟合戦になったこの騒動は、ついに国許の高松で「逆意派」が武装蜂起して高松城を威嚇射撃したことで幕府も放って置けなくなった。
同じ大老職である利勝は忠勝に
「讃岐守どの、オレに気を使うなよ。手加減無用ぞ」
と言った。
判決は「逆意派」数名を切腹や死罪にし、高松藩はお取り潰しというものだった。
勝訴した生駒帯刀は松江藩にお預けとなった。
そこへ、死罪となった飯尾宗兵衛の甥・彦之丞が仇討ちにやって来たのだ。