もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

鶴ヶ城公園(会津若松城)

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【2011年5月24日】

直江兼続吉川広家

二人とも、関ヶ原では西軍に付いた。

そしてそれは二人の主家を減封に追い込んだ。

上杉家は120万石を30万石に、毛利家は120万石を36万9千石に減封された。

兼続と広家は対照的な運命をたどった。

会津若松120万石から米沢30万石に減封された上杉家は、兼続が先頭に立って米沢領の開墾を始めた。

最初は兼続に対して「持高4分の1にされた責任を取れ」と恨みを平然と口にする者もいた。

当然だ。

しかし、そんな恨みの声も徐々に消えた。兼続が自ら先頭に立って農具を手にして開墾作業をするのだ。

米沢領は数年にして実高40万石までになった。上杉家は不運にも綱勝の死後30万石を15万石に削減されたが、綱勝の代まではこの兼続の開墾が実って実高が豊かであった。

これに対し、広家は死ぬまで毛利家中でいじめ抜かれた。

兼続に対する上杉家中の恨みの声は徐々にフェードアウトしていったが、広家に対する毛利家中の恨みの声は生涯続いた。

「南宮山(毛利軍)が動いておれば、松尾山(小早川軍)が寝返っても背後から徳川を襲えたわ!」

これが毛利家の家宰・毛利秀元長府藩祖)の言い分である。

広家は黒田長政の調略により南宮山の毛利軍を「食事中」として動かさなかった。しかし、結果として毛利家は周防・長門の2ヶ国に削減されたうえ、いえやっサンから「萩を本拠地とせよ」と命じられる始末であった。

無念と憎しみ。

これが広家の一身に集中した。そのため、広家は毛利家再建の舵取りを執ることは出来なかった。

マイナスからの再スタートの兼続と広家。

しかし、兼続と広家の再スタートはあまりに違い過ぎた。

兼続は自らが西軍として戦場に出て伊達軍と戦ったため恨みの声は徐々にフェードアウトしたが、広家は戦わずして領地を削られたため、毛利秀元をはじめとする毛利家中から「もしも」「たら、れば」を理由に死ぬまでいじめ抜かれた。

会津若松は兼続にとって再スタートの地であった。

越後・佐渡2ヶ国から会津若松への転封。しかし、会津若松での在封期間が短かったために再スタートと呼べるほどのものではなかった。

腰を据えたマイナスからの再スタート。

米沢で自ら先頭に立って汗を流した兼続。自ら汗を流したのは、西軍に付いた失敗の責任を感じていたからだ。

そしてその失敗から上杉家を再建することこそ、本当の意味での責任の取り方だと兼続は思った。