【2011年5月12日】
西山公園。
ここには鯖江城が築城されるはずだった。
鯖江藩主は間部家である。
家宣将軍の薨去後、「甲府グループ」は権力を守り抜くために天皇家の力を利用しようとした。
理由は、家継将軍がまだ幼児だったからである。
「甲府グループ」とは老中格側用人・間部詮房と御用学者・新井白石を中心とする連中で、家宣将軍が甲府から江戸城に入るときに一緒に来た連中なので「甲府グループ」と呼ぶ。
「甲府グループ」はもともと将軍家に仕えている譜代の連中とは上手くいかなかった。そのため、権力を守り抜くために天皇家の力を借りようと考えたのだ。
ちょうどこの頃、朝廷内部でも院政を巡って霊元上皇と近衛基煕が不仲になっていた。
霊元上皇は
「院政を続けるために、関東の力を借りるか」
と思いついた。
江戸の詮房と京都の霊元上皇の思惑が一致した瞬間だった。
霊元上皇の第13皇女に吉子という娘がいた。
この吉子を家継将軍の嫁にすればいいと考え、3歳の吉子と8歳の家継将軍を婚約させた。
霊元上皇にして見ればこの縁組を利用して近衛基煕を排除出来るし、間部詮房・新井白石にして見れば「家継将軍の御意思は上皇陛下の御意思」として政治を執ることが出来る。
3歳と8歳の縁組。
のちの関白・一条兼香はこの幼児の婚約を
「異常だ」
とバッサリ斬り捨てている。
しかし、両者の思惑通りにはいかなかった。家継将軍が9歳で病死したのだ。
八代将軍には紀州から徳川吉宗が江戸に入って将軍職に就任した。これに伴い間部詮房は老中格側用人を罷免されてヒラの譜代大名に格下げされ、新井白石は江戸城を追放された。
吉子内親王は4歳で「行かず後家」になった。
しかし、吉子内親王は45歳で死去するまで穏やかな時間を過ごした。
もし、本当に家継将軍の御台所になっていたら、穏やかな時間を過ごせたかどうか…
家継将軍の夭折によって夢破れた「甲府グループ」。
が、吉宗将軍は詮房の仕事ぶりには正当な評価を下した。
本来、吉宗将軍実現を邪魔した詮房は減封・お取り潰しになっても仕方がないところだが、持高5万石のまま上野高崎から越後村上に国替となっている。
村上藩主は代々譜代のうち名門の者が務めている。吉宗将軍は詮房の仕事ぶりを正当に評価して村上藩主の座を与えた。
詮房の死後、間部家は村上から越前西鯖江に移封となった。
これが鯖江藩である。