【2011年5月6日】
元和8年7月3日。
加賀金沢藩主・前田利常の正室で秀忠将軍の次女である子々姫が病没した。
子々姫病没。
江戸でこの知らせを受けた土井利勝は
「好機到来!」
と早速金沢に使者を差し向けた。
使者が前田家に手渡した手紙には
「前田家の多年にわたる幕府への忠勤を認め、加賀・能登・越中の3ヶ国から伊予・讃岐・土佐・阿波及び淡路の5ヶ国へ国替とする」
と書かれていた。
「早速来たか」
前田家家老の二人、本多政重と横山長知は子々姫が死んだら幕府は何か仕掛けてくるだろうと読んでいた。
「四国全土に淡路島とは。こんなことを思いつくのはあいつだけだろう」
「うむ。オレも安房守どのと同感よ」
本多政重が言う「あいつ」とは、土井利勝を指す。本多正純・加藤忠広・徳川忠長…これら有力大名を次々と「悪魔の知恵」でお取り潰しに追い込んだ利勝。その利勝だからこそ思いついた金沢から四国への国替。
「拒めば次は取り潰すつもりだろう。横山どの、あの化け物はこのオレでないと相手は出来んわ」
本多政重は横山長知にこう言って単身江戸に乗り込んだ。
「安房守どのも元は徳川の者であろう。この国替を機に幕府に戻って来ればよいではないか」
と言った。
しかし政重は
「あいにくだが大炊頭どの、オレはもう前田家の人間だ。前田家の人間としてこの国替、お断り申す」
ときっぱり言い切った。
政重は先代・利長から受けた恩を生涯忘れなかった。
「気持ちは伝わる」と他の家臣たちと分け隔てせずに扱ってくれた利長の温かい心に感謝し続けた。
利勝は
「では安房守どの。幕府と一戦交えることになったとしても、でござるか?」
とお取り潰しを匂わせた。
政重は
「ほう。一戦交えると申されるが、大坂の陣の際、冬の寒さに凍えておったのをお忘れか?金沢の冬は大坂よりも厳しゅうござるぞ」
と籠城して徹底抗戦を匂わせた。
利勝が生涯苦手としたタイプに、伊達政宗がいる。
利勝は開き直るタイプに弱かった。その点、政重は政宗に似ていると言える。
冬の金沢で籠城戦。
豊臣家は65万石だったので冬の陣を戦うことが出来たが、前田家は120万石。籠城されれば兵糧攻めにしても長引くこと明らかだった。
「国替のこと、沙汰止みとする」
利勝は吐き捨てるよう、苦々しく言った。