【2012年10月25日】
水野日向守勝成。
備後福山藩初代藩主である。
いえやっサンの家臣には口の悪いガラッパチが何人かいるのだが、この水野勝成と安藤直次はその代表格であった。
長久手の戦いのときのことだ。
このとき、勝成は眼にものもらいを患い、そのため兜を被らずに戦場に向かおうとした。兜を被ると眼が痛くて痛くてしょうがないのだ。
これを見た父・水野忠重が「おまえ、死んだらどうするんだ!」と叱ると、勝成は
「兜が無いことで頭を割られて討ち死にしても、それは時の運なんだ。親父、オレが一番首を取るかオレが首を取られるか、そこで見ててくれ」
と戦場へ駆けて行き、見事一番首を取った。
そしてこのとき、「鬼日向」のあだ名が世間一般に定着した。
時が流れて元和5年。
このガラッパチは備後半国10万石を与えられ、福島正則の時代に整備された備後神辺城に入った。
勝成が備後半国を与えられた理由は、隣の安芸広島藩主・浅野長晟に備えるためであった。
浅野長晟は安芸一国に備後半国を加えた426,500石という大藩で、40万石を超える外様国持の藩は中国地方では浅野家一軒のみだった。
勝成は自分が備後半国を与えられた理由をよく理解していたが、しかしその反面で
「浅野どのの正室は権現様(いえやっサン)の御息女・振姫様よ。元和厭武のこの時代、謀反などあるまいて」
と、広島藩への備えよりも自領・神辺10万石の繁栄に重点を置いた。
勝成は備後国の地理に明るく、そのため、
「神辺よりも、瀬戸内に近い福山に藩庁を置いたほうが良い」
と判断し、秀忠将軍に福山城築城許可を求めた。
功臣からの申し出に秀忠将軍は二つ返事で許可を出した。
こうして、秀忠将軍の「一国一城令」以降では最大規模の城・福山城は築城された。
福山藩家臣の統制について、勝成は特に法度を制定したり家臣一同から誓詞を取ったりはしなかったが、福山藩家中で騒動や問題は起きなかった。
このへんがただのガラッパチとは違うところだ。
「良将の中の良将だ」
と褒め称えた。
また、勝成も
「新太郎少将どのの岡山藩の経営は見事だ」
と光政の岡山藩経営手腕を褒め称えた。
こうして勝成と光政は互いを高め合いながら藩経営を行なった。
慶安4年3月15日、水野勝成没。
享年88。