【2012年9月6日】
「また、カネのかかることを…」
肥前佐賀藩主・鍋島斉直は頭を抱え、「いい加減にしろよ」とたまりかねて口にした。
文政2年。
この年、幕府から鍋島斉直に
「上様(家斉将軍)の姫君・盛姫様と鍋島家の嫡男・貞丸どのの婚儀を申し付ける」
との通告があった。
諸大名は将軍の娘を嫁に迎えることを歓迎しない。
まず、将軍の娘を嫁に迎える際には「御殿」を建設しなければならない。これに莫大な費用がかかる。
次に、「将軍の娘は嫁しても臣下の礼をとらず」。つまり、嫁ぎ先の舅・姑に対しても頭を下げることは無いのである。
こういった事情・理由から将軍の娘を嫁にもらおうなんて考える大名はほぼゼロに等しいのだが、家斉将軍の都合がそれを許さない。何せ家斉将軍の子供は認知しただけでも男女合わせて55人いるのだから。
文政2年12月。
鍋島斉直は嫌々ながら嫡男・貞丸と盛姫の婚約を認めた。
認めた以上は盛姫のために「御殿」を建設しなければならない。
佐賀藩江戸家老が大奥に「御殿」建設の伺いを立てると、大奥からは
「二階建ての御殿がよろしかろう。階段は全て黒漆塗りにして、廊下には羅紗をお敷きなされませ」
と返事が来た。
家老から返事を聴いた斉直は
「そこまで…そこまでやるのか…」
と眩暈を起こした。
この年は佐賀藩江戸藩邸が火災で消失。そこへ来ての御殿建設で佐賀藩の財政難はますます悪化した。
この財政難の悪化のため、鍋島斉直はとうとう佐賀から江戸へ行く参勤費用を捻出出来なくなった。
幕府からは「出府されたし」と何度も何度も言って来る。
しかし、「交通費無いんで、江戸へは行けません」とも言えず、結局仮病を使った。
そして、文政8年11月27日。
鍋島貞丸と盛姫、結婚。
この日から、斉直の「嫁しても臣下の礼をとらないカネ喰い虫で疫病神なオンナ」との江戸での生活が始まった。
文政11年、財政難に悩む斉直にとどめが刺さる。
8月9日、佐賀藩全域を900hPa以上の規模の台風が襲う。
「子年の大風」。
別名「シーボルト台風」と呼ばれる台風で、佐賀藩内の死者1万9千人。甚大な被害を受けた佐賀藩はここでもまた復興費用の捻出を余儀無くされる。
天保元年。
限界に達した鍋島斉直は「オレ、もうやめた」と嫡男・貞丸に家督を譲った。
のちの維新の立役者の一人、鍋島直大の登場である。