【2012年6月28日】
残虐な刑罰の禁止
だった。
現代ではこれが当たり前なのだが、この当時は残虐な刑罰が行われていた。
会津藩の場合は、秀吉の「奥州仕置」のあと会津若松に入封した蒲生氏郷が残虐な刑罰を用いた。
氏郷が用いた残虐な刑罰のうち、主なものは
◆牛裂き
◆釜茹で
◆松明踊り
の3つである。
牛裂きというのは罪人の両腕・両足に牛を縄でくくりつけ、そのあと牛を松明の火で刺激すると牛が走り出して罪人のからだがバラバラにちぎれる処刑方法だ。
釜茹では大きな空の釜に下駄を履いた罪人を立たせ、釜が十分熱したところに油を注いで罪人を揚げてしまうというものだった。
松明踊りは大きな木の柱に罪人を首輪で吊し、両手に油の入った容器を持たせ、そこへ死刑執行人が前後左右から火を点ける。すると両手の油容器に引火して罪人は踊り狂ったようになって死ぬ。
どれも残虐な処刑方法で、まともな人間ならまず思いつかないだろう。
保科正之はまずこの残虐な刑罰を禁止した。
次に、犯罪者の連座制について見直した。
正之は連座制について、三族にわたって罪に問うことをやめさせた。連座で罪に問われる者を直系家族に限定したのだ。
「私の藩では父親が死罪の場合、その子供も死罪にします。しかし、それが正しいかどうか、私にはわかりません」
と相談を受けた。
正之は
「他藩のことはわかりませんが、我が藩では父親が磔刑だった場合はその子も死罪にしますが、父親が斬首だった場合はその子を死罪にはしません。『その子を死罪にしないと報復があるぞ』と申す者もおりますが、万一そのようなことになったときは、それが自分の天命なのだと思っております」
と答えた。
正之は「基本は人のいのち」と考えていた。
残虐な刑罰の禁止や連座制の緩和はその考え方の一環で、それは正之が会津藩のみならず全国規模でやめさせた殉死のことにもつながる。
また、正之は会津藩領内の全ての90歳以上の男女に対し、生涯一人扶持を与えるとした。
生涯一人扶持。
コメに直すと1日玄米5合。
平均寿命の短いこの時代、正之のこの政策はあまり意味をなさないのではと思いきや…
寛文3年時点での生涯一人扶持受給資格者、151人。
長寿の人はいつの時代にもいるもんだ。