【2012年6月8日】
安藤直次。
いえやっサンの家臣には口の悪いガラッパチが数人いて、この安藤直次とのちの初代備後福山藩主・水野勝成がその代表だった。
この、口の悪いガラッパチが生涯に二度、泣き続けたことがある。
一度は、慶長20年の大坂夏の陣のときだ。
夏の陣で直次は長男・重能を失った。
直次は重能の遺体を収容しようとする家臣たちに
「そんなもの、犬に食わせておけ!それよりも陣を立て直して反撃するのだ!」
と陣の立て直しを優先し、豊臣軍を撃退した。
我が子の遺体を「犬に食わせろ!」とはヒドいが、大坂落城後、直次は三日三晩泣き続けた。そのため、周囲の者が「安藤どのはこのまま泣き死んでしまうのではないか」と心配した。
そしてもう一度が、慶長5年の関ヶ原の戦いの直後だ。
関ヶ原の戦いの直後、福島正則が北政所に先勝報告をするために家臣の佐久間加右衛門を近畿へ差し向けた。
関ヶ原から近畿への街道筋はいえやっサンの家臣の伊奈図書が守っていた。
伊奈図書はいえやっサンから「誰も通すな」と命ぜられていたため、主命に従い加右衛門を追い返した。
加右衛門は「役目を果たせなかった」と正則の眼前で屠腹して死んだ。
このあと、福島正則がいえやっサンに加右衛門の首を送り、
「伊奈図書の首をもらい受けたい」
と要求して来た。
正則としては伊奈図書が許せなかったのだろう。
伊奈図書は、いえやっサンの指示を守って佐久間加右衛門を追い返した。
それ自体は、正しい。
上の指示を守って働く。組織において最も大切とされるルールだ。そしてその「ルールを守る」ことが出来るという信頼が伊奈図書にはあった。
いえやっサンは関ヶ原後の国づくりについて、
道義立国
を目指していた。
道義立国にはまずルールを守ることが求められる。
そのため、いえやっサンは伊奈図書を必要な人材だと思っていた。
伊奈図書は「ルールを守る」ということにおいては正しかったが、あまりに融通が利かな過ぎた。そのために福島正則から恨みを買った。
まだ徳川政権は確定していない。この状況で正則を敵に回せない。
いえやっサンは安藤直次に
「悔しいが、図書の首を左衛門大夫に渡さねばなるまい」
と悔しさいっぱいに言った。
直次は伊奈図書の首を刎ねたあと、やはり三日三晩泣き続けた。