【2012年6月6日】
寛保2年3月。
貧乏大名で有名な松平明矩が陸奥白河から播磨姫路へ国替となった。
持高は陸奥白河同様15万石。しかし、明矩の結城松平家は貧乏大名で知られていて、今回の播磨姫路への国替に際しても姫路行きの費用が捻出出来ないため、江戸の商人・高間伝兵衛から借金した。
そんな貧乏大名の明矩に延享2年、幕府は朝鮮通信使接待役を命じた。
実際の使節来日は3年後の寛延元年なのだが、これだけ前もって任命するのはカネがかかるからだ。
明矩は費用3万両(15億円)のうち1万両を農民、1万両を町人から取り立てた。ひどい話だ。
そして寛延3年6月、播磨室津港で正使・洪啓禧(ホン・ゲフィ)以下477人の朝鮮通信使一行を接待。接待はつつがなく終わり、一行は江戸へと向かった。
松平明矩は無事朝鮮通信使接待役を務め終えた。
が、しかし…
寛延3年9月2日。
朝鮮通信使接待から3ヶ月経つか経たないかのこの日、姫路地方を大型台風が襲った。
倒壊家屋366戸。
さらに風害と塩害が追い討ちをかける。
朝鮮通信使接待のための増税に加えて、今度の台風。この時点で年貢の納入は不可能だった。
姫路藩でも事情はよくわかっていて、年貢の納期を約1ヶ月遅らせることにした。
姫路藩では年貢の納期限を毎年11月晦日と決めていたが、この年に限り12月25日にすると発令したのだ。
が、年貢納期延長を発令したあとの11月16日、播磨姫路藩主・松平明矩が急死してしまう。
享年44。
幕府は嗣子・朝矩に家督相続を認めたものの、朝矩はまだ11歳だった。
ここで姫路藩領民の頭に、ある不安がよぎる。
「朝矩様は、姫路から国替になるのではないか…」
「姫路藩に幼年の藩主は認めない」
これは幕府の基本方針だ。
なぜ松平朝矩が国替になると困るのか?
それは、松平明矩が朝鮮通信使接待費用1万両を農民から取り立てた際、「いずれ返す」と言って取り立てたからだ。
農民たちの不安は的中する。
12月26日、幕府は松平朝矩に対して国替を命じた。
「1万両、踏み倒されるで!」
一揆勃発の報を聴いた幕府は大坂城代・酒井忠用に姫路藩への介入を命じた。