もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

長浜城

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【2012年5月30日】

竹中半兵衛は生前、秀吉の弟・秀長に

「殿には己を空しゅうしてお仕えなされよ」

と忠告している。

「己を空しゅう」

自我を持つな、と、半兵衛は言っているのだ。「それがNo.2の立場の者がいのちを長らえる方法だ」と。

No.2の難しさ。

それは古代から秀吉の時代に至るまで変わらない。

頼朝にとっての梶原景時

尊氏にとっての高 師直。

秀吉のあとの時代で言えば

本多正純

松平乗邑

田沼意次

みな、不遇な終わり方をしている。

しかし、そこは人間という生き物をよく理解している半兵衛のこと。こう忠告することで、秀長がおかしな終わり方をしないように気配りしたのだ。

秀長の長所は、「自分はあんちゃんほど頭が良くないから」と周りの意見をすんなりと聞き入れることが出来るところだった。

秀長は半兵衛の言う通り、「己を空しゅう」して秀吉に仕えた。秀吉もまた、この父親違いの弟を100%信用した。

一つの組織において、100%の信用を得られるNo.2なんて滅多にいない。

徳川幕府が一部を除くあらゆる役職を複数制にしたのも、単刀直入に言えばその者を100%信用していないからだ。

しかし、秀吉は100%信用出来る弟がNo.2だったことに幸運があった。この幸運あったればこそ、豊臣という家を興すことが出来た。

「己を空しゅう」することの難しさは、千 利休や石田三成を見てもらえばわかるだろう。「己を空しゅう」出来ないNo.2の末路なんてあんなモンだ。

豊臣政権樹立後、秀長は大和郡山100万石の大大名に出世した。

いえやっサンを除けば、100万石というのは上杉・毛利くらいのものだ。

これだけの大封を得ても、秀長は「己を空しゅう」していられた。若き日に半兵衛から言われたことを守り続けるうちに、自然とそういう人格形成が出来たのだ。

千 利休や石田三成は「己を空しゅう」とは程遠いところにいた。だから、その最後が切腹だったり斬首だったりと不幸な終わり方をしている。

しかし、これほど見事なまでに「己を空しゅう」出来た秀長も、ただ一点、疵があった。

それは、病的なまでの蓄財癖である。

秀長は銀の蓄財に眼の色を変えていた。

「大和大納言様の御蓄財」

病的なまでの銀蓄財は世間の噂になり、噂にたまりかねた秀吉が「ほどほどにしておけよ」と言ったくらいである。

完璧な人間では息が詰まるので、このくらいでちょうどいい。