【2012年5月28日】
寛永19年8月。
肥後熊本藩隠居・細川忠興は京都から一人の男を隠居所・八代城に招いた。
その男、名をば
長岡休無
という。
剃髪しているので「休無」と名乗っているが、元の名を細川忠隆という。
細川忠隆は忠興の長男で本来ならば嫡子として細川家を継ぐはずだったが、父親と仲が拗れて廃嫡された。
以後、姓を庶流が名乗る長岡に変えた。そのため、長岡休無という名前なのだ。
八代城で休無と対面した忠興は
「勘当を解く。今までのこと許せ」
と言った。
この瞬間、関ヶ原の直後から続いたこの父子の対立は和解した。
忠興が休無と和解した事情は、忠興が四男・立孝に新しく藩を興させてやろうと思ったところにある。
熊本藩細川家の領地の内訳は
◆本藩・熊本/445,000石
◆隠居料・八代/95,000石
となっていた。
忠興は自分の隠居料である八代9万石を四男・立孝に相続させて新しい藩を興させてやりたいと思ったのだ。
完全な親バカである。
この親バカ計画の協力者になってもらうため、忠興はかつて廃嫡した長男に頭を下げた。
当時、熊本藩主は細川忠利の子・光尚で、光尚の周囲の連中は「何を馬鹿なことを」と八代領独立に反対していた。
しかし、立孝を溺愛している忠興には熊本にいる光尚の取り巻きが自分の邪魔をしているとしか受け止めない。
そこで休無を八代に呼び寄せ、立孝の立藩の協力者になってもらおうと思ったのだが…
長岡休無は父親にきっぱりと
「私を巻き込まないで下さい」
と言い放ち、そのまま京都へ帰ってしまった。
立孝の立藩は熊本藩内では否定的な意見のほうが多かった。
そこで忠興は江戸で立孝の立藩実現に向けて運動しようとしたのだが、正保2年閏5月11日、まず当の立孝が父親に先立って病死してしまう。
さらに12月2日、今度は忠興自身が江戸で病死した。
これで忠興が計画した八代領独立は消え去ったが、熊本藩内には忠興・立孝支持派が残っている。
熊本藩主・細川光尚は御家騒動のタネを未然に刈り取るため、まず、立孝の遺児・行孝に肥後宇土3万石を与えて宇土藩を立藩させた。宇土藩は本藩の石高が減らない「内分知」の方式で立藩された。
次に八代城は城代制とし、筆頭家老・長岡興長(松井興長)を初代城代とした。
行孝を八代城から引き離すことで、後々の騒動の芽を摘んだのだ。