もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

弘前公園(弘前城)

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【2012年5月1日】

石田隼人正重成。

石田治部少輔三成の次男である。

関ヶ原の戦いでは本拠地・近江佐和山城を守っていたが、佐和山落城後、津軽信建の助けで津軽へ逃亡した。

津軽家は石田三成と親しく、重成逃亡の手助けは情に厚い東北人ならではのことである。

なお、佐和山城攻めの総大将は例のあの小早川秀秋で、三成との親睦を守った津軽信建と戦場で寝返った秀秋の対比に皮肉を感じる。

佐和山からの逃亡後、しばらく津軽で潜伏生活を送ったのち、重成は藩命で上野国(いまの群馬県)の大舘というところに赴任する。弘前藩津軽の本領の他に上野大舘に2,000石の飛び地を持っていたためだ。

この大舘に、ある一人の女性が生活していた。

この女性、名をば

辰姫

という。

辰姫は石田三成の娘で、重成の実の妹だ。

辰姫はもとは弘前藩主・津軽信枚の妻だったが、関ヶ原後に幕府からの圧力によって離縁させられた。

幕府は津軽家に対して、

「石田治部少輔は徳川に弓引いた大罪人。その大罪人の娘が国許にいるのは、好ましくない」

と圧力をかけたのだ。

津軽家では辰姫を離縁したが、それは表向きのこと。津軽信枚と辰姫の関係はここ大舘の地で続いた。

重成は藩から大舘でこの妹の面倒を見るよう命じられたのだ。

やがて辰姫は信枚の子供を授かる。

この子供こそ弘前藩嗣子・津軽信義である。

石田重成の長男・八兵衛は大舘で生まれて大舘で育った。

大舘生まれ大舘育ちというのは、辰姫や信義と一緒に生活していたことを意味する。

石田八兵衛がのちに弘前藩家老に就任する下地はこのときに出来ていたと言ってよい。

津軽信義が正式に次期弘前藩主に指名されると、八兵衛も一緒に弘前へ移った。

弘前へ移った八兵衛は信枚の娘・子々姫と結婚。

徳川家に弓引いた大罪人・石田三成の直系の孫はついに弘前藩家老

杉山八兵衛吉成

として公に復権したのだ。

吉成の家禄、1,300石。

当時の弘前藩が5万石だったことを思えば、この1,300石は決して小さくない。

弘前藩が10万石の准国持大名に昇格するのは、吉成が死んだずっとあとのことだ。

家老職就任後は蝦夷地で起きたシャクシャインの乱平定のため藩兵700を率いて彼の地に赴く等、信義のためによく働いた。

寛文12年3月30日。

弘前藩家老・杉山吉成、死去。

享年66。

吉成の子孫は弘前藩重臣として存続した。