【2012年4月26日】
天和元年11月22日。
信濃上田藩主・仙石越前守政明は2人の人物の身柄を預かった。
この2人、名をば栗本直堅と真田辰之助といい、上野沼田藩主・真田信利の三男と四男である。
この2人は沼田藩お取り潰しにともない、上田藩へお預けとなった。
沼田藩お取り潰しの原因は真田信利の苛政にあった。
真田信利は3万石の沼田藩を本藩の信濃松代藩と張り合うために14万4千石に高直しした。
4.8倍の増税である。
気が違っているとしか思えない。
さらに信利は自らの贅沢のために多額のカネを必要とした。
そのため、贅沢を諫める忠臣を遠ざけ、カネ集めの上手な塚本舎人という者を重用した。
そしてこの塚本とつながっていた者に藩の奉行職を務める麻田権兵衛というのがいた。
麻田権兵衛と付き合いのある商人に大和屋久右衛門というのがいて、この大和屋が麻田に
「3,000両(2億2500万円)で引き受けてもらいたい仕事がある」
と持ちかけた。
それは、延宝8年夏の暴風雨で破損した両国橋の修復工事に必要な材木の用意だった。
用意する材木の数は694本。これを大和屋は沼田藩に発注したのだ。
贅沢するためにカネが欲しい真田信利は大喜びで引き受けて3,000両を手にした。
沼田藩は延宝7年の水害、延宝8年の冷害のために大量の餓死者を出していた。
加えて、真田信利が3万石を14万4千石に高直ししたために年貢率が八公二民(所得税80%)という異常な税率になってしまい、沼田藩領民は慢性的な飢餓状態だった。
そんな状態の領民が伐採した木材を江戸へ運搬するという力仕事に耐えられるワケも無く、江戸に届いた材木はわずか13本という有り様だった。
この慢性的な飢餓に耐えかねた沼田藩領民の松井市兵衛と杉本茂左衛門が江戸へ出て幕府に信利の苛政を直訴した。
直訴を受けた幕府は巡見使を沼田に派遣。
派遣された巡見使は沼田領に着いた瞬間、
「これは…この世の地獄じゃ…」
と、目の前の荒廃した土地と餓死者の遺体が転がる様を見てつい口にした。
巡見使はありのままを幕府に報告。
綱吉将軍は老中職・大久保忠朝に真田信利取り調べを命じた。
「材木の用意が出来なかった原因は沼田藩の苛政が原因」
取り調べの結果を受けた綱吉将軍は沼田藩お取り潰しを決めた。