もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

鶴岡公園(鶴岡城)

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【2012年4月16日】

「判決、金森兵部少輔の所領・美濃郡上を収公。その身は盛岡藩南部家へお預けとする」

判決文を読み上げる裁判長・酒井忠寄(55歳)。

忠寄は出羽鶴岡藩主である。

この裁判は美濃国郡上藩で起きた一揆と神社領の宗教対立の2つを裁くもので、郡上藩主・金森兵部少輔頼錦はこの裁判の被告人だった。

事の発端は頼錦の藩政投げ出しにある。

金森頼錦は金森家代々の美徳である風雅の道を重んじる藩主だった。

現在に伝わる菅原道真肖像画は頼錦力作で、大名でなければ一大文化人として名を残せたことだろう。

しかし、頼錦は大名なのだ。大名は「統治」という仕事をしなければならない。

が、頼錦は40歳を境に藩政を家老連中に投げ出してしまった。

藩主が藩政を投げ出したのだ。あとは家老連中の勝手になってしまう。

家老連中は藩の収入を増やして贅沢をすることを考えた。

そこで家老連中は年貢の徴収方法を現行の定免法から検見取法にしようと思いついた。

定免法が豊作・不作に関係無く一定の年貢率であるのに対し、検見取法は収穫を根こそぎ徴収するもので、当然郡上藩領民は反対した。

この反対を黙らせるために郡上藩の家老連中は金森家と遠戚にあたる老中職・本多正珍を動かして

「郡上藩検見取法導入は、幕府の命令である」

という書類を偽造させた。

この公文書偽造の実行犯は寺社奉行・本多忠央と勘定奉行・大橋親義で、この2名に文書偽造を指示したのが本多正珍だった。

この偽造文書のもと検見取法が実施されたが、当然農民たちは黙っていない。

宝暦5年11月26日、郡上藩農民の長助たち5人が江戸で酒井忠寄の駕籠に直訴したのだ。

忠寄は「郡上藩はそんなにひどいのか」と思ったが、この駕籠直訴のときは対応しなかった。

しかし、農民たちは諦めない。

宝暦8年4月2日。

郡上藩の農民たちは

箱訴

を実行する。

箱訴とは目安箱に訴状を投入する行為だ。

箱訴になった以上、幕府も動かざるを得ない。

この年7月20日。

「はじめにこの問題の訴えを受けたのは私だから」

酒井忠寄は自らを裁判長に5名の裁判官を任命して郡上藩検見取法導入問題の裁判を開始した。

まず、最初の判決が10月29日に下った。

最初の判決では公文書偽造に関わった本多正珍たちが罷免等の処分を受けた。

そして12月25日、藩主・金森頼錦に対して冒頭の判決が下った。