【2012年4月10日】
小河一敏。
豊後岡藩勤王の志士である。
一敏は文化10年、岡城下の上角で生まれた。
若き日に岡藩儒学者の野溝清格と角田九華に朱子学を学び、のちに陽明学を学んだ。
才能ある若者だったため、岡藩総奉行の柳井藻次郎が一敏を岡藩元締役に抜擢する。柳井藻次郎は勤王派である。
時に文政7年、一敏24歳のことだった。
一敏に転機が訪れるのは天保11年9月28日、岡藩主・中川久教が死去したことだ。
久教は急死だったともいわれている。
次の藩主には伊勢津藩藤堂家から藤堂高亮が婿養子としてやって来た。高亮は岡藩中川家を相続し、中川久昭と名乗った。
天保13年、佐幕派の久昭は一敏や柳井たち勤王派を岡藩から追放した。この事件を岡藩七人衆の変と呼ぶ。
藩を追放され浪人となった一敏だったが、勤王の志を捨てることは無かった。
そして嘉永6年、ペリーの来航を機に真木和泉や横井小楠たちと接触。ここで刺激を受けた一敏は岡に帰って勤王の建白書の執筆に入る。
一敏は文久元年の1月と5月、藩主と朝廷に対して勤王の建白書を提出。8月には朝廷から建白書に対する感状が贈られた。
が、岡藩内の佐幕派がこの感状に噛み付いた。「偽造したのてはないか」と。
一敏は感状偽造の罪で幽閉されたが、一敏幽閉処分に対して朝廷から岡藩に苦情が出る。
苦情を受けた岡藩は感状が偽造されたものではないと知り、一敏を解放した。
幽閉を解かれた一敏は文久2年2月、薩摩藩領内の市来で九州諸藩の勤王の志士たちと会議を開いた。この会議を「市来会議」と呼ぶ。
この会議で九州諸藩の志士たちから勤王のための支援を取り付けた一敏は岡に帰国して会議の内容を報告。
これによって岡藩は勤王で藩論を統一した。
慶応4年5月。
維新後、太政官に出仕した一敏は大坂から独立した堺県の県知事に就任した。
就任早々大和川が洪水し、一敏は独断で県札の発行等住民の救済をしたため、明治2年、独断の罪で免職されてしまった。
一敏は堺県知事在任中、泉・河2州の養蚕を盛んにした。
そのため、当時の住民たちは桑のことを「小河桑」と呼んだ。