もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

大阪城公園(大坂城)

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【2012年3月15日】

『幕府祚胤伝』という本がある。

徳川家の家系図が書かれている本で、当然ながらいえやっサンの子供のことも記載されている。

その中に、

小笠原権之丞

という男子について記述がある。

この権之丞は松平忠輝の弟にあたると書かれている。松平忠輝は六男なので、単純に考えて七男以下ということだろう。

『幕府祚胤伝』に記載される以上、秀忠将軍以下他の男子同様いえやっサンが認知したのには違いないはずなのだが、この権之丞の生年月日及び死亡年月日が記載されていない。

記載されていることといえば、

京都三条の某の娘の生んだ子で、のちに小笠原広朝の養子となった。慶長末年(慶長17年)、キリシタンとなったため追放した。そして大坂夏の陣で豊臣方として天満橋で討ち死にした」

と、これだけである。

確かに、いえやっサンには存在が好ましくない男子が何人かいた。

結城秀康松平忠輝がいい例だが、この二人にしても家系図には詳細な履歴が記載されている。なのに、権之丞は生年月日さえも抹消されている。

何故か?

徳川幕府キリスト教を否定する「仏教基調」の宗教政策を採った。そのため、権之丞のようなキリスト教信者になった息子の存在など認められないのだ。

しかし、いえやっサンは何故か存在そのものまで記載を削除していない。このあたり、松平忠輝を改易した際に名笛・野風を贈ったのと同じ心境だったのかも知れない。

小笠原権之丞が大坂天満橋で討ち死にしたかどうかは、実は定かでは無い。

権之丞は同じくキリシタン浪人・明石全登の隊に属し、いえやっサンの本陣に繰り返し突入を試みて全登ともども行方不明となった。

いえやっサンは夏の陣ののち、捕らえた全登の次女・レジナに対し「おまえの兄弟は何人だ?」と尋問した。

レジナは「四人です」と答えると、いえやっサンは「本当は五人であろう?」と切り返した。

するとレジナは

「それはそうなのですが、うち一人は修道者になって世捨て人同然なので、やはり四人です」

と答えた。

答えを聴いたいえやっサンは、「そちは正直なおなごよの」とだけ言った。

権之丞が明石家の「家族」となっていることをつかんでいたいえやっサン。

「世捨て人」となった我が子・権之丞を想うその胸中はいかばかりであっただろう。