もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

小田原城

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【2012年2月21日】

寛永9年。

下野真岡藩主・稲葉正勝は老中職就任に伴い相模小田原へ転封となった。

真岡では4万石だったが、小田原では倍増の8万5千石を与えられた。

正勝は8万5千石に相応しい家臣団の形成が必要になった。

そこに、有能な人材が現れた。

その人材、名をば

堀 定則

という。

堀 定則はもとは筑前秋月藩黒田家に仕えていた。本藩である福岡藩が付家老として定則を秋月に行かせた。

定則の秋月での禄高は5,000石。秋月藩は5万石なのでいかに定則が厚遇だったかわかるだろう。

しかし、定則は秋月藩主・黒田長興と対立する。

藩主としての地位を確立したい長興と、本藩からの付家老という立場から「我等が“殿”とお呼びしての殿」という考え方の定則。

この対立は定則が秋月藩を退去することで決着がついた。黒田長興は定則に対して奉公構え(再就職禁止)の処分を下した。

奉公構えとなった堀 定則は江戸麹町で浪人暮らしを始めた。

それを知った稲葉正勝が定則に目を付けた。

しかし、定則を雇いたくても長興が奉公構えの処分にしている以上雇うことが出来ない。

正勝は長興に

「堀 定則を小田原藩で召し抱えたい。許可してもらえないだろうか」

と頼んだ。

初め、長興は返事を渋った。長興は定則が許せなかったのだ。

しかし、本藩である福岡藩から「奉公構えを解いてやれ」との指示が出たため、長興は

「5,000石以下で、かつ無役ということなら了承しましょう」

と返事した。

福岡藩は正勝が春日局の息子だということを重視した。この先の福岡藩と幕府との関係形成を考えたとき、正勝及び春日局に好印象を与えたほうがいい。そう判断したのだ。

この判断は正しかった。

のちに福岡藩は大船建造の一件で幕府から謀反の疑いをかけられたが、稲葉家や春日局大老職・土井利勝に働きかけてこの問題を不問に付している。

黒田長興は定則の小田原藩再仕官について「5,000石以下かつ無役」という条件を付けたが、稲葉正勝は定則の禄高については3,000石に抑えたが箱根関所総番頭の役職に就けた。

箱根は江戸時代を通して関東の守備の要所だった。その箱根関所の総責任者を任せたくらいだから、やはり正勝の見た通り定則は有能な男だったのだろう。

しかし、定則はおのれの有能さに傲った。

そのため、正保2年に正勝の跡を継いだ正則にお手討ちにされた。