【2012年2月15日】
池田新太郎光政。
5歳のとき、初めていえやっサンに対面した。光政はいえやっサンにとって義理の孫に当たる。
いえやっサンが光政を膝の上に乗せて「おお、かわいいのう」と頭を撫でていると、光政は何を思ったかいきなりいえやっサンの腰から脇差を引っこ抜いて鞘から出すと、
「やあ、これは本物じゃ!」
と大声で叫んだ。
度胸があると言うべきか、奇行と言うべきか?
後年、光政は大老職・酒井忠勝に異端児扱いをされて幕府と対立することとなるのだが、そうなる要素がこのときすでにあったのかも知れない。
光政は14歳になると、京都所司代で幕府重臣の板倉勝重に国持大名の心得を教わった。
藩の学者や家老から教わろうとするならいざ知らず、14歳の外様の少年が幕府重臣に教わりに行くというのは、やはり変わっている。
しかし、僧侶あがりの勝重は嫌な顔せず、光政に
「角なる箱に味噌を入れて、円い杓子ですくい取るように計らわれるがよろしい」
と教えた。
四角い箱に入った味噌を円いおたまですくったのでは、端っこに味噌が残ってきれいにすくえない。
勝重は「細かいことを口やかましく言わないほうが良い」と教えているのだ。
これは、平安時代に朱雀天皇が関白・藤原忠平に「政治とはどのように行えばよいか?」と御下問したのに対し、
「琴の弦は締め過ぎても弛め過ぎても音色が悪うございます。琴の弦を張るようになさればよろしいかと存じます」
と忠平が答えたのと相通じるものがある。
しかし、光政の藩政を振り返ると、細かいところまで厳しかった部分もあるような気もするのだが…
長じて光政は、人材の登用方法について
「家柄よりも個人。個人よりも人柄」
というやり方を採った。
この登用方法で採用されたのが津田永忠で、この人事について不服だった門閥筆頭の家老・池田由成は罷免同然の隠居に追い込まれている。
「人次第、才次第」
人柄はもちろん、能力も求められるのだが、光政はまず人柄ありきだった。このへんが、光政独特のやり方だ。
津田永忠も光政の期待によく応えた。池田由成隠退後は光政の手足としてよく働いた。
「頑固者」
「異端児」
「個性派」
池田光政にはこんな言葉が合うのだが、しかし彼が名君であったことには変わりない。
岡山藩政の基礎を築いたのは、間違い無く光政なのだ。