【2012年1月10日】
稲葉正利。
幕府老中・稲葉丹後守正勝の弟で、春日局の息子だ。
正勝は家光将軍に仕えたが、正利は徳川忠長に仕えた。これが二人の明暗を分けた。
正勝は幕府老中としての道を歩み、正利は徳川忠長に連座して罪人扱いとなった。
寛永10年12月、駿河府中藩主・徳川忠長は幕府により自害させられた。
このとき、駿府から従って来ていた稲葉正利は肥後熊本藩主・細川忠利にお預けとなった。
本来は熊本では無く、もっと辺境な土地への流罪だったが、兄・正勝が老中職としての影響力を行使して熊本行きとなった。
正利は罪人扱いながら用人1人、小姓1人、奉公人6人と商人の惣兵衛を供に連れて行くことを許された。
肥後に到着した正利は、隈府というところで暮らすことになった。隈府では惣兵衛が正利の身の回りの世話をした。
罪人扱いが余程ショックだったのだろう。正利は肥後に着いてから奇行が目立った。その都度、細川家から諫められるのだが正利は一向に行動を改めない。
細川家では手に余って母親の春日局に苦情を入れた。
苦情を聞いた春日局は正利に
「おまえは本来、駿河様(忠長)と一緒に自害すべきだったのを正勝が助けておまえの今日があるのですよ」
と諭す手紙を送った。
しかし、正利の奇行は改まらない。
惣兵衛は「嫁を取らせれば少しは落ち着くかも知れない」と、正利に一人の女性を娶せた。
この女性、名をば
おいわ
という。
このおいわは長崎の女性で、長崎から女性を連れて来たのには理由があった。
それは、熊本の女性と結婚させた場合、正利が赦免されて江戸に帰る際にトラブルになる可能性があるからだ。子供の認知のことから熊本藩での扱いに至るまで、トラブルになる可能性は十分あった。
そこで惣兵衛は長崎からおいわを連れて来た。長崎は天領だ。おいわが妊娠・出産したとしても熊本藩に迷惑はかからない。
やがておいわは男子・三内を出産した。
この三内の扱いについて、慶安2年に熊本藩主・細川光尚と正利の間で話し合いが持たれている。
おそらくはその場で三内を熊本藩士として登用するかどうかが話し合われたのだろう。
しかし、その場で結論は出ていない。
延宝4年、稲葉正利は赦免されないまま死去するが、三内に対して熊本で取り立てるという話は無かった。
稲葉三内は明歴元年に家を興すことを許可されたが、翌年18歳で病死し正利の血統は絶えた。