【2013年2月4日】
天明5年10月22日。
治政は
「ついにはあの田舎小僧も、年貢の納め時になったか」
と、ちょうど1年前を思い出して感慨に耽った。
ちょうど1年前。
天明4年10月。
その盗人、名をば
田舎小僧新助
という。
新助は主に大名屋敷に侵入して盗みを繰り返す窃盗の常習犯だった。
治政は鉄の鞭を振り回して新助を追い回したが、新助は間一髪脱出した。
治政は
「にくい奴かな。打たんと思ったが見失ったか」
と悔しがった。
それから1年。
新助は一橋徳川家の屋敷への侵入に失敗。
捕らえられて小塚原で処刑された。
享年36。
新助は武蔵国足立郡新井戸村で百姓の市右衛門の息子として生まれた。
あまり素行の良くない少年で、15歳のときに江戸・神田の紺屋へ10年の奉公に出された。
が、10年経って奉公の年季が明けても新助は故郷に帰らず江戸に留まった。
安永5年12月6日。
この日、新助は当時の奉公先だった江戸・下谷の又兵衛宅から3分2朱(43,750円)を盗んで逃亡した。
これが新助の「盗人デビュー」だった。
さらに4日後の12月10日、新助は江戸・金杉村の民家で盗みをしようとしたところを現行犯逮捕。身柄を寺社奉行・太田資愛に引き渡された。
資愛は新助を入墨・敲きの刑に処して新井戸村に追放した。新助は27歳で入墨者になってしまった。
入墨者になった新助を家族も村の者たちも良くは思わない。また、新助の素行も直らない。
天明元年、新助はついに勘当された。ときに新助、32歳。
勘当された新助は江戸・浅草駒形の惣八のもとで棒手振りとして人生を再スタートさせた。
が、天明3年に惣八が棒手振り業を廃業。
無職になった新助は盗人稼業に戻ってしまう。
天明4年3月。
これを皮切りに天明5年8月16日に一橋徳川家侵入失敗で逮捕されるまでの間、大名屋敷14件を含む24件・27回にわたって犯行を繰り返した。
逮捕後、新助は町奉行の取り調べに
「池田様のお屋敷で追い掛け回されたのが一番怖かった」
と供述している。