里菜サンは、よっぽどその「すいーとぽてと」が好きなんだな。
こないだ水戸のジイサンが葡萄酒(ワイン)くれたからそれと合わせてみたんだが、そしたらウマかったな。まだ葡萄酒残ってっから、今日の「すいーとぽてと」はありがたく頂戴するぜ里菜サン。
ん?
長屋の前にいるあの子は誰って?
あの子は絵美里っていってな、そこの角んとこに小せえ味噌屋があったろ?その味噌屋のお嬢ちゃんだ。働き者でいい子なんだぜ。
父親と二人っきりでやってるんだが品揃えが良くてな。南は福岡から北は仙台まで幅広く味噌が置いてある。いい店なんだ。
おい絵美里、おめえちょっと店ェ戻ってな、白味噌持って来てくんねえか?
お代はあとで左平次に持たせて行かせるからよ。
さ、今日はどこのハラキリお大名の話をすりゃあいいんで、里菜サン?
何?
大野丸だ!?
今日は人じゃなくて船の話かい、里菜サン?
ありゃあな、能登守様(土井利忠)と大野藩の連中の夢と希望をぎっしり載せた船だった。里菜サンが思うようなトンチキ船じゃねえぜ。
大野丸はな、安政4年に大野藩が発注した洋式帆船でな、次の年の6月に完成した。費用は1万両(5億円)だ。4万石の小っちぇえ大野藩がよくまあ奮発したモンよ。
大野丸を建造したにはちゃんと理由がある。里菜サン、大野藩は、いや、能登守様ァな、北蝦夷(樺太)を開拓して藩の商売を拡大しようと思ったのよ。
能登守様が越前大野4万石を相続しなすったのが8歳のときだ。こンとき、大野藩は財政難で虫の息だった。大野藩は以後24年間、虫の息でフラフラだった。
ありゃあ天保13年だな。4月27日のこった。32歳の能登守様は「更始の令」ってえ財政再建宣言をしてな。そンときだ、里菜サン。能登守様は二人の改革担当者を登用した。内山良休様と内山隆佐様ご兄弟だ。内山サンご兄弟は火の玉のお働きで大野藩財政を黒字にしたのよ。で、黒字になると次は黒字を大きくしてえってな。
里菜サン、内山サンご兄弟はな、財政再建のために大野屋ってえ店を始めた。店そのものは藩営なんだがな、店の実際の切り盛りは内山サンご兄弟に任された。その「1号店」を大坂に出した。「1号店」にゃあ大野藩の特産品がズラッと並んだ。大野藩の主力商品は煙草だ。こいつが飛ぶように売れた。煙草の他のモンも良く売れた。
大坂で当たったモンだから、大野屋は越前国内・岐阜・名古屋、さらにその先箱館(いまの函館)まで店を出した。
大野屋はどこも繁盛した。里菜サン、これで何かしようってえときの元手が出来たってえワケだ。
もっと商売を拡げてえ。
ま、そこは里菜サン、4万石のお大名もオレたち庶民も変わらねえ。そこに、ありゃあ確か安政元年だな。内山サンご兄弟が能登守様に北蝦夷開拓建白書とかいうのを出した。大野屋は箱館に店出してたからな。蝦夷(北海道)のこたァ逐一情報が入ってたのよ。
オレたちの時代、北蝦夷はニッポン人とおろしや人(ロシア人)が雑居してた。ニッポン人もいるなら商売になる。商売になるし北蝦夷は幕府が「警備してくれるんなら、彼の地その藩の斬り取り勝手」ってえ言うんだから、箱館で商売やってる大野藩としちゃあ指ィくわえてボケーッと見てることもねえだろうってな。
で、里菜サン。大野藩は幕府に北蝦夷開拓を申し出た。それでさっきの1万両の船だ。こいつが大野丸ってえ名前で北蝦夷と越前大野を往復した。
大野丸の初就航が安政6年3月21日。敦賀湾を出港した大野丸は3月29日には箱館到着だ。さすが、洋式帆船は違うぜ。
大野丸にゃあ北蝦夷で売りさばく商品の他、武装した藩兵も乗せた。ま、北蝦夷開拓がもともとの目的だからな。
でもまあ里菜サン、北蝦夷は大野とは比べモンになんねえくらい自然環境が厳しくってな。冬の寒さも雪の量も大野とは比べモンになんねえ。さすがに能登守様も「こいつァちょっと、ダメそうだな」ってことで幕府に「やっぱ北蝦夷開拓やめます」って申し出たんだがな、こンだァ幕府が「それはなんねえ」って言い出した。幕府は大野藩に「江戸でのお役目全部免除するから、北蝦夷開拓続けろ」ってな。
里菜サンの時代で言う「安全保障」ってヤツだ。エゲレスやメリケンだけじゃねえ。おろしやだって幕府から見りゃあ脅威だった。
ま、江戸での掛かり(出費)がゼロになるんだ。それなら続けるかってことで大野丸の北蝦夷-大野往復の航海は続けられた。ま、何せ斬り取り勝手だしな。そして何より能登守様も内山サンご兄弟も商売が面白れえんだよ。
ところがだ里菜サン、その大野丸は根室沖で座礁・沈没しちまうんだ。これが元治元年の8月24日のこった。
初めの就航から5年。5年で大野丸は海の藻屑になっちまった。
斬り取り勝手の北蝦夷で、商売拡げながら斬り取り勝手。大野丸は能登守様や大野藩の夢と希望を運びながら北蝦夷と越前大野を往復してたんだがな。
ま、これで大野藩の北蝦夷開拓も進まなくなった。能登守様は御一新のあとの明治元年3月、北蝦夷の大野藩開拓領を新政府に返上しておしまいにした。能登守様ご自身もこの年の12月3日に亡くなられた。享年58。
「更始の令」から始まって大野丸が沈没するまで、大野藩は上から下までみんなが財政再建とその先の豊かさ目指してまっしぐらに突き進んだ。これといった「抵抗勢力」が出なかったのは能登守様のお人柄と能力よ。
大野丸は海の藻屑になっちまったが、人は前向きに目標持って生きるモンだ。能登守様はオレたちにそういうふうに教えてくれたんじゃねえのかな。オレァそう思うぜ里菜サン。
すいーとぽてともいいが、たまにゃあしょっぱいヤツもな。
里菜サン、また。