ああおい左平次、れんこんに白味噌塗って揚げたのか?
こいつァいい。
絵美里ンとこは白味噌扱ってるからな。
れんこんの甘みと白味噌の甘みが合うんだよな、これが。
で、丁度良く里菜サンが剣菱持って来てくれたってことか。
ありがてえ。
で、今日はどこのハラキリお大名の話をすりゃあいいんだい里菜サン?
あん?
肥後侍従(加藤忠広)様の話してくれろだ?
あのな里菜サン、オレたちの時代はな、里菜サンの時代とは違って物言う自由ってのが無えんだよ。
あんなトンチキお大名の話なんざしたら奉行所しょっ引かれちまうじゃねえかよ。
まあでも手土産が剣菱じゃイヤだとは言えねえやな。
肥後侍従様ァな、主計頭(加藤清正)様の息子だ。養子じゃねえぜ、実の息子だ。
主計頭様が死んじまって、肥後侍従様が肥後一国・熊本54万石を継いだのが11歳のときだ。11歳だぜ里菜サン。里菜サンが11歳のときに54万石相続しろって言われても眼ェパチクリするだけだろ?54万石てえのは里菜サン、里菜サンの時代に置き換えると1万と800人社員がいる会社引き継ぐのとおんなじなんだ。
そんな大封、11歳の坊やにゃ無理だぜ。で、やっぱダメなんだ。肥後侍従様じゃ熊本藩の家老連中を抑えらんねえ。こいつァ最上と一緒だ里菜サン。最上もそうだったが、熊本も1万石級の家老がゴロゴロいて、そいつらが11歳の坊やの言うことなんか聴かねえんだ。
ま、これが幕府の知れるところになってな。秀忠公は肥後侍従様の熊本藩相続を認める条件として「合議制を守ること」と「藤堂和泉守(藤堂高虎)を監国にすること」を加藤家に認めさせた。好き勝手言い合うと藩政は停まっちまうし、かと言って11歳の坊やじゃダメだから和泉守様を監国(政治監督)にしろって秀忠公は言ったんだ。
加藤家ではこの条件を飲んだ。が、大坂の陣で豊臣家が滅びると加藤家は真っ二つに割れた。
幕府寄りの加藤正方一派を「牛方」、豊臣寄りの加藤正次一派を「馬方」って呼んで互いにいがみ合った。
あれァ確か元和4年だったな。主計頭様が死んで7年後、豊臣が滅んで3年後のこった。「牛方」の下津宗秀ってえのが「馬方」が大坂の陣のときに豊臣に兵糧横流ししてたって幕府に訴え出た。そしたら今度ァ「馬方」の連中が「『牛方』が熊本藩政を私物化してる」って幕府に訴え出た。あとは4年間「牛方」と「馬方」が訴訟合戦だ。頭痛くなんだろ里菜サン?
元和8年、この訴訟合戦に秀忠公が直接お裁き下して決着よ。判決は「馬方」の全面敗訴。「馬方」の連中は全員流罪にされて熊本藩は「牛方」の天下になった。
こいつァな里菜サン、あの監国(藤堂高虎)が「牛方」とツルんでたんじゃねえのかってな。「馬方」の有力家老に玉目丹波守ってえお方がいたんだが、この玉目のオッサンの妹が主計頭様の側室・正応院様で、正応院様は肥後侍従様の生母だ。里菜サン、「馬方」に殿様の生母の外戚なんかがいると監国としちゃあ困るのよ。
何で困るかって?あのな里菜サン、幕府の基本方針は「外様などゴミ同然。あるだけ迷惑」だった。その基本方針を悪魔の知恵で強引に押し進めたのが御大老(土井利勝)だ。御大老は監国に「何か加藤家のアラ見つけて、そのまま取り潰しに使え」って知恵付けた。監国は「大炊頭様(利勝のこと)の仰せならば」って「牛方」に加担して「馬方」を熊本から追っ払った。
だがな里菜サン、事は御大老や監国の思うようにはならなかった。肥後侍従様の御正室は秀忠公の養女・琴姫様だ。養女とはいえ秀忠公もてめえの娘の嫁ぎ先取り潰そうとまでは思わなかったんだろうぜ。
ま、11歳からこんな御家騒動を経験するんだ。肥後侍従様もトンチキになっちまうワケだ。
熊本藩加藤家は秀忠公の隠居後にとうとうお取り潰しになっちまうんだがな、そりゃまた今度だな。
剣菱もすいーとぽてともありがたく頂戴するぜ。
里菜サン、揚げたてのれんこんの白味噌揚げがあるから、今日はそれ持ってってくんな。
里菜サン、また。