もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/石田重成、またの名を杉山源吾。いや、杉山源吾、またの名を石田重成

左平治、「かりぃ」だ。「かりぃ」の匂いがプンプンするぜ。

ゆかサンだ。ゆかサンの「かりぃ」だ!

左平治、銀シャリたんまり炊くんだぞ。「かりぃ」腹一杯食うんだからな。

ああ里菜サン。今日はゆかサンと一緒に来たのかい?

ん?

そいつァ辣韮じゃねえか?

そんな酸っぱいの里菜サンの時代でも食うのか?

へ?

里菜サンの時代は辣韮を「かりぃ」と一緒に食うのか?変わったことするんだな。

で、いつものすいーとぽてとに剣菱か。

なあ里菜サン、このすいーとぽてと、りんご入ってるぜ。これはこれでうめえな。

ま、剣菱にすいーとぽてとだからな。今日はどんなハラキリお大名の話すりゃあいいんだよ?

何?

杉山八兵衛様?

あのな里菜サン、あのお方はな、ダメなんだよ。奉行所行きになっちまうんだよ。

ん?どうしたよゆかサン?

水戸のジイサンから手紙預かってるって?

どれどれ…

「杉山八兵衛が儀、里菜サンに話すこと差しつかえ無し。幕府には余が伝えてある」

じゃ、何の心配も無えな。

里菜サン、聴いてってくんな。

杉山八兵衛様。

このお方はな、元の名を石田重成様と言ったんだ。

ああそうだ。

里菜サンの読み通り、このお方は石田治部少輔(石田三成)の息子だ。

いつ生まれたかははっきりしねえんだが、太閤が薨去なさった翌年(慶長4年)から秀頼公の小姓として仕え始めた。

で、翌年、関ヶ原だ。

石田方は敗北、佐和山にいた重成様は本来なら落城と同時に自害なんだがな、佐和山から助け出された。

助け出したのが津軽左馬頭(津軽信建)様の手の者だ。左馬頭様の手の者は重成様を佐和山から若狭に出して、そっから船で津軽に逃がしたんだ。

何で津軽が石田治部の息子を助けたんだって?

里菜サン、津軽は長年南部と争った。それは津軽が南部から独立したあとも続いたんだ。それをその都度、津軽側に立って津軽有利になるようにしてたのが石田治部だった。石田治部はイヤやヤツだが、打ち解け合った仲間にはとことん親切にするヤツだったんだよ里菜サン。

津軽が南部から独立すンのを太閤に認めさせたのも石田治部だし、そのあとあれこれ嫌がらせする南部から津軽を守ったのも石田治部だったんだ。

そんなワケで津軽は石田治部を恩人と思ってた。その恩人の息子が佐和山城と一緒に灰になるなんていけねえってな。そンで左馬頭様が人を使って重成様を若狭まで逃がした。若狭湾から津軽までは商人の船で逃がした。

里菜サン、関ヶ原で当主の津軽右京大夫津軽為信)様は徳川に、嫡男の左馬頭様は石田に付いて戦った。こいつァ真田が親父(昌幸)が石田に付いて嫡男(信之)が徳川に付いたのとおんなじだ。里菜サンの時代の言い方をすりゃあ「自家保存」ってヤツだな。

津軽に逃れた重成様は名前を杉山八兵衛って変えて第二の人生をスタートさせた。また、八兵衛様は源吾とも名乗った。もしかしたら里菜サンの時代だと杉山源吾って言ったほうがピンと来るのかも知れねえな。

里菜サン、津軽家は徳川・石田両方に付いたが、当主の右京大夫様が徳川に付いたってことで上野大館に2,000石加増された。津軽から上野(いまの群馬県)だからえれえ離れた飛び地だがな、領地が増えるのは嬉しいこった。

右京大夫様は幕府の眼ェ気にしてな、津軽にいた八兵衛様を上野大館に移した。大館領支配の役目を果たして慶長15年に江戸早稲田(いまの新宿区早稲田)の津軽藩邸に移り住んでな、寛永18年に死去した。生まれた年がわかんねえから、53歳だろうって言われてるが、確かなこたァわかんねえな。

里菜サン、八兵衛様の子孫は里菜サンの時代にもいるんだが、八兵衛様は子孫を無事残すためにあれこれ細工しなすった。

津軽の杉山家家系図ではご先祖様が「某」で始まるんだ。源平藤橘や神様じゃなくて、「某」だぜ里菜サン。

その「某」のとこにはな、「太閤に仕え、近江に5,000石を領す」って書かれてる。これが石田重成、いや、杉山八兵衛源吾なんだがな。里菜サン、確かに八兵衛様が石田重成だった頃、佐和山領とは別に近江甲賀郡杉山に5,000石を与えられてたんだ。で、その近江杉山の地名から「杉山」ってえ名字に変えた。

それからな里菜サン、八兵衛様の孫の嘉兵衛サンってお方が「杉山八兵衛は最期は伊勢津の藤堂家に仕え、伊勢で死んだ」って書き残してる。これも幕府の眼ェくらますための細工だ。

子孫を無事残すためにてめえの名前を家系図に残さず、江戸で死んだのに伊勢で死んだことにする。

里菜サンの時代とは比べモンになんねえくらい名誉ってえのが重んじられた時代に、てめえの名前を「某」としてしか残せなかった八兵衛様。

でもよ里菜サン、八兵衛様の息子の吉成様は津軽の家老だぜ?

てめえは捨て石でも、子孫がしあわせならそれで良し。

石田治部は打ち首だが、息子が津軽で、しかも家老・重臣の家柄として残った。それは石田治部が津軽に親切にし続けたからで、東北の情の深さがそれに響いたってこった。

里菜サン、こうやって石田治部と八兵衛様を見てると、捨て石のいのちでもあとでちゃあんと報われる。そう思わねえかい?

ああ本当だ。

「かりぃ」に辣韮、合うじゃねえか。

辣韮齧って剣菱もいいんだが、「かりぃ」と食うのもうめえな。

里菜サン、また。