【2011年11月28日】
天正14年。
秀吉は母・なかと妹・朝日姫をいえやっサンに人質に出した。
理由は、いえやっサンを上坂させて諸大名の前で臣下の礼を取らせるためである。
しかし、秀吉はいえやっサンに上坂命令ではなくて上洛命令を出した。京都で事前会談を行い、スムーズに事を運ぶためだった。
浜松で上洛命令の手紙を受け取ったいえやっサンは、その文面の1箇所に首を傾げた。
その1箇所とは
「榊原康政を同伴させること」
の部分だ。
「はて、小平太をのう…」
いえやっサンは初め首を傾げていたが、すぐに心当たりを思い出した。
「あのことか…」
それは長久手の戦いの際、羽柴・徳川両陣営に大量にバラ撒かれたビラのことである。
そのビラには秀吉が織田家の天下を簒奪したことへの批判、秀吉とその家族に対する侮辱が書かれていた。その文面を考案し、執筆したのが榊原康政だった。
「仕方無い。小平太を連れて行く」
いえやっサンは本多正信を連れて行くつもりだったが、康政を連れて行くことにした。
秀吉といえやっサンは、京都で会談した。
秀吉から名指しで呼び出された榊原康政は成敗されるのを覚悟していた。
秀吉は部屋に入って康政の顔を見るなり、
「母ちゃんに謝れ!」
と怒鳴った。
それはもう、天下人秀吉では無く、尾張中村の百姓そのものだった。
「母ちゃんの悪口許せねえ!」
秀吉は百姓ことば剥き出しにして康政を怒鳴った。
「オレの悪口はいくらでも構わねえ!でも母ちゃんの悪口は許せねえ!」
いえやっサンと康政は両手をついて頭を下げたまま言葉が出せない。
いえやっサンも人質時代、母・於大の顔を思い浮かべてつらい時期を我慢して乗り越えた。それを思ったとき、いえやっサンには秀吉の怒りが理解出来た。
「わかりました。私が大坂城で諸大名の目の前であなた様に頭を下げましょう。それで康政の罪、許してもらえますまいか?」
いえやっサンは頭を上げて秀吉にこう言った。秀吉は「それならば…」とこれ以上怒鳴ることはしなかった。
あとは、和やかに会食となった。
「まあ飲め」
秀吉は康政に笑顔で酒を注いだ。
「母親、か…」
いえやっサンは京都の夜空を見ながら呟いた。
天正14年10月27日。
「徳川家康、上坂大儀!」
上座から秀吉に言われ、いえやっサンは平伏した。
「母親、か…」
いえやっサンはこころの中でもう一度呟いた。