もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

彦根城

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【2011年11月24日】

弘化3年1月。

井伊直弼は兄・彦根藩井伊直亮に呼び出されて江戸で生活することになった。

理由は、次期彦根藩主になるためだ。

直弼は彦根藩主になる予定が無かったため、正室がいなかった。

そこで家慶将軍は養女・精姫を直弼に娶せようとした。井伊家は譜代大名の筆頭、将軍の養女と結婚しても家格のうえで何ら問題無い。

しかし、この縁談は潰された。

潰したのは誰あろう井伊直亮である。

井伊直亮は「むつかしき殿様」と記録に残っているように、気難しい性格の持ち主だった。

直亮は直弼と精姫が結婚した場合、精姫が将軍家の養女として輿入れするため毎日挨拶に出向かなければならない。

精姫に頭を下げるというのは、弟・直弼に頭を下げるという意味でもある。直亮はそれを極端に嫌がった。

もともと直弼は彦根藩を継ぐ予定が無かったのだ。そのうえ、直弼は顔が赤くて動作がのっそりとしていて会話もおっとりだ。

直亮は

「あんな赤牛みたいなヤツにペコペコ出来るか」

と思い、将軍家との縁組を断って丹波亀山藩主・松平信豪の娘・昌姫との縁組をまとめた。

井伊家は幕初は徳島藩蜂須賀家から、幕府中期になると京都の宮家から正室を迎えていた。蜂須賀は国持、宮家は天皇家と血が繋がるのでいずれも井伊家の家格と釣り合っていた。

しかし、丹波亀山藩松平家は十八松平家とはいえたった5万石のヒラ譜代だ。井伊家とは釣り合いが取れない。

にもかかわらず、直亮は「弟にペコペコするのがイヤだ」というだけで将軍家との縁組を蹴って形原松平家の娘を選んだ。

こうして、弘化3年10月13日に井伊直弼と昌姫との縁組が成立した。

家慶将軍はキレた。

「直亮め、ナメやがって!」

と腹を立てた。

家慶将軍は直亮に報復した。

弘化4年2月。

彦根藩相模湾警護を命じられた。

相模湾警護などはヒラ譜代か中小の外様大名の仕事である。それを、家慶将軍は譜代筆頭である彦根藩に命じたのだ。

井伊直亮は渋々と浦賀へ向かった。

江戸っ子たちは

掃部さん

表きらいで

裏がすき

と川柳で皮肉った。

「掃部さん」は「井伊掃部頭」を指す。

「表きらいで」の「表」は将軍家を指し、「きらいで」は精姫を振ったことを意味する。

そして「裏がすき」は「浦賀好き」にかけたものだ。

ヒラ譜代がやるような仕事を押し付けられた彦根藩

それは全て、井伊直亮に原因するものだ。