もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松本城

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【2011年12月1日】

文久2年5月29日午前2時頃、信濃松本藩士・伊藤軍兵衛は奇声をあげながら単身高輪東禅寺を襲撃した。高輪東禅寺はイギリス公使館として利用されている寺院だ。

伊藤軍兵衛の松本藩は東禅寺警護を担当していた。東禅寺を警護していたのは松本藩・大垣藩・岸和田藩の3藩で、その費用がそれぞれの藩の悩みのタネであった。

伊藤軍兵衛は熱心な攘夷論者だったため、

「何故、我が国がエゲレス人を護るために多額の費用を投じ、人を割かねばならないのか」

と怒っていた。

そこへ、水戸藩士が東禅寺を襲撃するという噂が警護の3藩の間で流れた。

軍兵衛は

「もし、噂通りならオレたちは同胞と斬り合わねばならぬ。オレは同胞を斬りたくない。ならばいっそのこと、このオレが…」

と思った。そして、犯行に及んだ。

軍兵衛は奇声をあげながらイギリス代理公使・ニールの寝室を目指した。

単身である。所詮無理な話なのだが、軍兵衛は奇声をあげながら白刃を振るった。

軍兵衛はイギリス兵2名を殺害したが、ニールの寝室には辿り着けず、逃亡した。

翌5月30日、軍兵衛は松本藩江戸藩邸で自害した。

この事件のあと、松本藩は東禅寺警護の任務を外されたが、しばらくの間、幕府から白い眼で見られ続けた。

東禅寺警護から外されたことについては軍兵衛の目的は達成されたが、松本藩主・松平丹波守光則は幕府から閉門処分を受けた。

軍兵衛の怒りの先にあった腰抜け幕府は慶応3年、徳川慶喜大政奉還したことで消滅した。

翌慶応4年2月29日、藩主・松平光則は藩士の次男・三男まで含め松本城に召集し、「新政府に付くか、徳川に付くか?」で議論した。午後4時に始まった議論は午後11時まで続いた。

午後11時、松平光則は

「思うところがある。松本藩は新政府軍として戦う」

と宣言した。

実は慶応4年になってすぐ、光則は岩倉具視宛てに新政府への帰順口上書を提出していた。

光則は「新政府への帰順は松本藩としての総意」という体裁を取りたかった。そのため、形ばかりの藩士召集を行なったのだ。光則はすでに徳川と旧幕府を見限っていたのだ。

光則は新政府軍への参戦と同時に松平姓を捨てて本姓の戸田に復した。

戸田光則

「軍兵衛、おまえの無念はこれで半分晴れただろう。これからは攘夷とは違った形で堂々と異国と渡り合う世の中になるのだ」

と、独りつぶやいた。