里菜♪
里菜♪
里菜♪
“I'd stand and fight the whole world for you”
ねーらーいーうーちー♪
\(^O^)/
こどもの日なんで、ちらし寿司です♪
o(^o^)oo(^o^)o
やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
やねよりたかい こいのぼり
おおきいまごいは おとうさん
ちいさいひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
里菜様
ああ…
おい左平次、オレァめまいしてきたぜ。
あれ見てみろよ。
アリサのヤツ、あんなでっけえ鍋荷車に積んで来やがった。で、何でまた荷車の後ろを里菜サンが押してるんだよ。
なあ左平次、あんなでっけえ鍋いっぱいに油揚げ食ったら渋り腹(下痢)になっちまうぜ。
里菜サンまでよしてくれよ。あのお姫様みてえに鍋カンカン叩いて「アブラゲ!アブラゲ!」ってやるつもりかい?縁起でも無えな。
で、そのすいーとぽてとで今日はどこのハラキリお大名の話すりゃあいいんだい?
加藤左馬頭(加藤嘉明)様?
里菜サン、あのお方は立派なお方だ。トンチキなんかじゃねえぜ。
ん?
里菜サン、そりゃあ松山城の絵図面だな?
どうもこう、里菜サンは普通のお嬢さんが持たねえモンばっかし持って来るな。
よしわかった。
今日は左馬頭様の話だ。
左馬頭様は永禄6年に三河国幡豆郡(いまの愛知県西尾市)でお生まれになった。初めは岸 孫六ってえ名前だった。
父親は岸 三之丞様(岸 教明)ってお方で、三河の松平家の家臣だったんだが、この岸様はな、孫六坊っちゃんが生まれた年に起きた三河国一向一揆で一揆側に付いちまった。
里菜サン、ありゃあスゲえ一揆だったんだよ。松平家を真っ二つにする大いくさでな。何せ「殿(徳川家康)を選ぶか?信仰(一向宗)を選ぶか?」って戦いだったからな。そンで岸様は権現様じゃなくて仏様を選んじまった。
一揆自体は1年で治まったんだがな、権現様が一揆側に加担したヤツを許さねえ。あの本多佐渡守様(本多正信)でさえ10年間徳川家追放だ。岸様も三河に居らんなくなって流浪の身になっちまった。
元は武士でもルンペンはルンペンだからな。何もしなきゃ飢えて死んじまう。孫六坊っちゃんは幼い頃から博労の元で働くことになった。里菜サン、博労は「ばくろう」って読む。馬喰とも書くんだがな、馬の目利きや売り買いをする仕事のことだ。
博労のオッサンは孫六坊っちゃんに「責任感」を叩き込んだ。里菜サン、どんな仕事でもいい加減にやったらたくさんの人に迷惑がかかっちまう。これは里菜サンの時代でもオレたちの時代でもおんなじだ。博労のオッサンはな「いいか孫六。おめえの目利きを信じて馬を買ってくれるお客さんに駄馬を売ったら、博労としてのおめえは誰からも信じてもらえなくなる。信じてもらえなきゃ馬は売れねえ。博労は馬が売れなきゃ飢え死にだ」って教えてな。で、「信じてもらいたきゃあ、お客さん一人ひとりに責任持って馬ァ売るこった」って叩き込んだ。孫六坊っちゃんは「責任感」を大切にする人間に育った。それは死ぬまで変わらなかったんだ。
孫六坊っちゃんの親父の岸様は流浪の末に近江長浜の太閤(豊臣秀吉)に300石で召し抱えられてな。それを知った孫六坊っちゃんは長浜で博労の商売をやるようになった。ちょうどその頃、太閤の家臣に加藤景泰様ってお方がいて、この加藤様が孫六坊っちゃんから馬ァ買ったとき、「こいつは責任感のあるいい仕事をする。武士になっても十分使える」って思った。加藤様は孫六坊っちゃんに「オレは羽柴家中の者で加藤景泰という者だ。孫六、おまえは見どころがあるからこれから羽柴に仕えろ」って言って長浜城に連れて行った。
長浜城で孫六坊っちゃんと会った太閤は「確かに見どころがあるな。じゃ、おまえは今日から秀勝(羽柴秀勝)の小姓になれ」って言って孫六坊っちゃんを丹波少将様(羽柴秀勝)の小姓にした。丹波少将様は信長公の四男でな、太閤が信長公に頼んで羽柴家の養子にしたんだ。このとき、孫六坊っちゃんは太閤から加藤姓を名乗るように命じられて姓を岸から加藤に改めた。
ところが孫六坊っちゃん、やらかしちゃうんだよ里菜サン。あれァ天正4年のことだな。太閤の播磨攻めのとき、孫六坊っちゃんは勝手に出陣して戦場に出ちまった。
戦場で勝手なことをやっちまうと、それが大敗につながることだってある。丹波少将様からご報告を受けた高台院様(ねね)はカンカンに怒ってな。「博労なんかで育ちが悪いからこんなことするんです!こんな者、羽柴の家から追い出してしまえばよろしい!」って怒鳴り声出しちまう有り様だった。
でもよ里菜サン、太閤は高台院様とはちょっと見方が違ってな。「孫六はやる気が勝って戦場に飛び込んだんだろう。やる気があるのは良いことだ」って言っておホメになった。で、「孫六は秀勝から引き上げる。今日からオレの直臣として300石」って直臣に取り立てなすった。
里菜サンも知っての通り、太閤も元は百姓だ。博労よりも下の身分だ。太閤はもとから武士の連中でも戦場は怖くてイヤだって露骨に出すヤツをたくさん見て来たからな。そんな連中に比べたら孫六坊っちゃんのほうがずっと気持ちのいいヤツだって思えたんだろう。
2年後の天正6年、孫六坊っちゃんは太閤の直臣として播磨攻めで正式に初陣を果たした。羽柴家臣・加藤孫六の「戦場でびゅー」だった。このとき、敵の首2つ取って300石から600石に加増されたのよ。
4年後、山崎の戦いの戦功で600石から3,000石に加増された。給料5倍だぜ里菜サン。そンだけ孫六坊っちゃんはよく働いたってこったろう。
さらに3年後の天正13年の3月には従五位下左馬頭に任ぜられた。里菜サン、流浪の博労少年がついに官位をもらったんだぜ。これが「加藤左馬頭嘉明」のでびゅーだ。
翌、天正14年。
あれァ確か11月の2日だな。
左馬頭様はこれまでの功績により淡路志智1万5千石の城持大名におなりなすった。博労が城持大名。里菜サン、運だけじゃこうはならねえ。そこには左馬頭様の「責任感」があった。「責任感」があるからいい仕事をする。その仕事に対して太閤が正当な対価を払う。左馬頭様は子供の頃に叩き込まれた「責任感」で城持大名にまでおなりなすった。
左馬頭様のすげえところはこっからだ里菜サン。城持大名になったことにあぐらかかずに淡路水軍を整備して九州攻めや小田原攻めで活躍しなすった。水軍整備してもっといい仕事してやろうってな。これも「責任感」だ、里菜サン。
左馬頭様の淡路水軍は唐入り(朝鮮出兵)でも活躍したんだ。日本軍は朝鮮水軍に散々やられたんだがな、左馬頭様の淡路水軍だけは強かった。
文禄3年、淡路志智から伊予松前6万石。さらには慶長3年、伊予松前10万石。とうとう左馬頭様は10万石の大大名におなりなすった。これも自分を取り立ててくれた太閤のためにいい仕事しようって「責任感」の賜物だ。
里菜サン、考えてもみろよ。
生まれたときからルンペンで、武士じゃなくて博労が人生の「すたーと」だった。そんなお方が、子供の頃に叩き込まれた「責任感」でとうとう10万石の大大名に出世しなすった。
左馬頭様は関ヶ原のあと、同じく伊予松前から伊予松山20万石に倍加増されて松山城を築城するんだが、それは明日の話だ。
今日は左平次がおいなりさんこさえたから、これ食って帰えんな。
里菜サンまた。
おい左平次、ありゃあ小石川(水戸藩上屋敷)の女中の里紗じゃねえか。何でまたあいつ、里菜サンと一緒にいるんだ?
ありゃあいっつも台所のメシつまみ食いしてこっぴどく怒られるんだよな。
あ、左平次、二人ともこっち来るぞ。左平次、里紗が来たら昨日こさえたねぎま鍋持たせてやれや。
ん?
里菜サン、そいつァいい色艶の〆さばだ。今日はすいーとぽてとじゃなくて〆さばかい。
で、剣菱も一緒ってこたァ、今日はどんなアブねえ話すりゃあいいんだい?
何でえ里菜サン、こりゃまたずいぶん達筆なお方が書いた漢詩だなあ。
へ?
こいつァ里菜サンが書いたのか?へぇ、大したモンだ。
今日はこれを解釈してくれって?
どれどれ、じゃ、剣菱ありがたく飲みながら解釈してやらあ。
本能寺。溝幾尺。
吾就大事在今夕。
茭粽在手併茭食。
四簷楳雨天如墨。
老阪西去備中道。
揚鞭東指天猶早。
吾敵正在本能寺。
敵在備中汝能備。
里菜サン、こいつァ山陽先生(頼 山陽)の「本能寺」じゃねえか。
里菜サン、若けえのに大したモンだな。
わかった。
オレも山陽先生大好きだからな。解釈してやらあ。
でもよ里菜サン、オレたちの時代は明智のオッサンは主殺しの大罪人で扱われてるから、人に聞かれると奉行所しょっぴかれちまう。
おい左平次、おめえちょっと里紗と二人して表見張ってろ。
里菜サン、そいつァな、山陽先生の『日本楽府(にほんがふ)』の中に収められてる詩だ。
山陽先生は日本国の六十六の人物や出来事を楽府詩(がふし)にしたんだ。その詩集が『日本楽府』だ里菜サン。
里菜サンが書き写してきたその「本能寺」は六十一個目の楽府詩だ。
楽府詩ってのは清国で昔あった詩の型の一つでな、音楽に合わせて詠む詩のこった。音楽に合わすから一行の文字数は不定型だ。
里菜サン、オレたちの時代は漢詩を詠めるのが「知識人」「文化人」「いんてり」だったんだ。だから山陽先生もわざわざ漢詩にしたんだ。
じゃ、解釈するぜ。
本能寺。溝幾尺。
「本能寺。溝は幾尺ぞ。」
本能寺。あの寺の濠はどのくらいの深さだろう。
って意味だ。
里菜サン、本能寺ってのはお寺らしからぬお寺でな。濠がめぐらしてあった。里菜サンが「いめーじ」するお寺とはちょいと違うんだ。そんなお寺だったから信長公も安心して宿所にしたんだろうな。
吾就大事在今夕。
「吾が大事を就すは今夕に在り。」
今宵こそ生涯の賭け。
里菜サン、山陽先生もなかなか「どらまちっく」な表現使うじゃねえか。たった七文字で明智のオッサンの胸の内書いちまうんだぜ?
明智のオッサンは本能寺を襲うのが「吾が大事」なんだからな。上手くいきゃあ天下人だがしくじったらてめえが死んじまう。
そんな気持ちがこの七文字に込められてる。
茭粽在手併茭食。
「茭粽手に在り茭を併せて食ふ。」
本能寺を襲う前、明智のオッサンは愛宕権現に事の成就を祈願した。
明智のオッサンは心ここに在らずで出されたちまきを葉っぱごと食っちまった。しょうがねえオッサンだ。
それとな里菜サン、明智のオッサンは愛宕権現でおみくじ引いたんだがな、何度引いても大凶出やがるモンだから、明智のオッサン、大吉出るまで何度もしつこくおみくじ引き続けたのよ。だったら謀反なんかやらなきゃ良かったのによ。
四簷楳雨天如墨。
「四簷の楳雨天は墨の如し。」
軒降りこめる梅雨空は墨のように暗い。
ま、これも山陽先生らしいところでな。その先の明智のオッサンの暗い未来を含めて書いた七文字だ。明るい兆しが何一つ無い真っ暗の梅雨空。それはまるで十日後の明智のオッサンみてえだって山陽先生は表現してるんだ里菜サン。
老阪西去備中道。
「老阪は西に去れば備中の道。」
老ノ坂を西に進めば主命奉ずる備中路。
明智のオッサンの丹波亀山城から少し行ったところに、老ノ坂ってえ場所がある。ここを西へ向かうと備中路。もともと明智のオッサンは信長公の御命令で備中にいる秀吉公の援軍に行くはずだった。
揚鞭東指天猶早。
「鞭を揚げて東を指せば天猶早し。」
いな、東へ!鞭揚げて指したのは暗闇の天。
夜中に東の空を鞭で指して備中ではなく京へ向かうよう全軍に下知した明智のオッサン。
東の空を鞭で指す明智のオッサン。里菜サン、明智のオッサンの姿が眼に浮かんでくるじゃねえか。でもよ里菜サン、明智のオッサンが鞭で指した空はやっぱ真っ暗なんだよな。
吾敵正在本能寺。
「吾が敵は正に本能寺に在り。」
我が敵は正に、本能寺に在り!
里菜サン、明智のオッサンはとうとう本能寺を襲うんだ。これが天正10年の6月2日の払暁のこった。
こン時に信長公と死んだ連中の中に毛利新助さんがいた。毛利さんは桶狭間で今川治部大輔(今川義元)の首をもいだお方だ。
信長公は本能寺に火をかけて自害した。享年49。
かつて、桶狭間を襲う前に舞った「敦盛」の「人生五十年」に1年足りなかった。
本能寺は焼け方が激しくてな。それで里菜サン、信長公は爆薬使ったんじゃねえかなんて説もある。もしそうなら、信長公に謀反して茶釜と一緒に爆死した松永弾正(松永久秀)とおんなじ最期だ。
敵在備中汝能備。
「敵は備中に在り汝能く備へよ」
非ず非ず光秀よ、真の敵は備中じゃ。備え怠るな。
里菜サン、最後の一行で山陽先生は「“我が敵は本能寺?”違う違う。あんたの本当の敵は備中にいる秀吉公なんだよ」って詠んだ。
この最後の七文字こそが山陽先生の真骨頂。歴史を見つめ続けた頼 山陽だからこそ詠めた七文字だ里菜サン。
「敵は備中に在り汝能く備へよ」
里菜サン、山陽先生は本能寺の一件を八行五十五文字で「どらまちっく」にまとめた。
これが「本能寺」の解釈だ里菜サン。
山陽先生は聖徳太子から秀吉公の唐入り(朝鮮出兵)までの六十六の人物や出来事を『日本楽府』に収めた。
本当は本多様(本多忠勝)や井伊様(井伊直政)のことなんかも詠んだんだがな、役人に悪意のある奴がいて削除されちまった。だから『日本楽府』は秀吉公が明と朝鮮の使節団の前で手紙を破くところでおしまいだ。
ま、オレたちの時代は里菜サンの時代と違って表現の自由も出版の自由も無かったからな。
本能寺。あの濠の深さは…ふと口を突く胸の内。
一生の大事を前に、心ここに在らずの光秀。
だから出された粽も葉っぱごと食べてしまった。
天には星一つ見えない真っ暗な梅雨空。
老ノ坂にさしかかり、西に向かえば主命奉ずる備中路。だが…
東の空を鞭で指した光秀。
「我が敵は、正に本能寺にあり!」
だが、そう全軍に命じた光秀の本当の敵は備中にいる秀吉なのだ。備え怠るな。
うめえ〆さばだった。
光りものと酒はこの上無え相性だからな。
い~い酒だったぜ。
里菜サン、また。