ああ…
おい左平次、オレァめまいしてきたぜ。
あれ見てみろよ。
アリサのヤツ、あんなでっけえ鍋荷車に積んで来やがった。で、何でまた荷車の後ろを里菜サンが押してるんだよ。
なあ左平次、あんなでっけえ鍋いっぱいに油揚げ食ったら渋り腹(下痢)になっちまうぜ。
里菜サンまでよしてくれよ。あのお姫様みてえに鍋カンカン叩いて「アブラゲ!アブラゲ!」ってやるつもりかい?縁起でも無えな。
で、そのすいーとぽてとで今日はどこのハラキリお大名の話すりゃあいいんだい?
加藤左馬頭(加藤嘉明)様?
里菜サン、あのお方は立派なお方だ。トンチキなんかじゃねえぜ。
ん?
里菜サン、そりゃあ松山城の絵図面だな?
どうもこう、里菜サンは普通のお嬢さんが持たねえモンばっかし持って来るな。
よしわかった。
今日は左馬頭様の話だ。
左馬頭様は永禄6年に三河国幡豆郡(いまの愛知県西尾市)でお生まれになった。初めは岸 孫六ってえ名前だった。
父親は岸 三之丞様(岸 教明)ってお方で、三河の松平家の家臣だったんだが、この岸様はな、孫六坊っちゃんが生まれた年に起きた三河国一向一揆で一揆側に付いちまった。
里菜サン、ありゃあスゲえ一揆だったんだよ。松平家を真っ二つにする大いくさでな。何せ「殿(徳川家康)を選ぶか?信仰(一向宗)を選ぶか?」って戦いだったからな。そンで岸様は権現様じゃなくて仏様を選んじまった。
一揆自体は1年で治まったんだがな、権現様が一揆側に加担したヤツを許さねえ。あの本多佐渡守様(本多正信)でさえ10年間徳川家追放だ。岸様も三河に居らんなくなって流浪の身になっちまった。
元は武士でもルンペンはルンペンだからな。何もしなきゃ飢えて死んじまう。孫六坊っちゃんは幼い頃から博労の元で働くことになった。里菜サン、博労は「ばくろう」って読む。馬喰とも書くんだがな、馬の目利きや売り買いをする仕事のことだ。
博労のオッサンは孫六坊っちゃんに「責任感」を叩き込んだ。里菜サン、どんな仕事でもいい加減にやったらたくさんの人に迷惑がかかっちまう。これは里菜サンの時代でもオレたちの時代でもおんなじだ。博労のオッサンはな「いいか孫六。おめえの目利きを信じて馬を買ってくれるお客さんに駄馬を売ったら、博労としてのおめえは誰からも信じてもらえなくなる。信じてもらえなきゃ馬は売れねえ。博労は馬が売れなきゃ飢え死にだ」って教えてな。で、「信じてもらいたきゃあ、お客さん一人ひとりに責任持って馬ァ売るこった」って叩き込んだ。孫六坊っちゃんは「責任感」を大切にする人間に育った。それは死ぬまで変わらなかったんだ。
孫六坊っちゃんの親父の岸様は流浪の末に近江長浜の太閤(豊臣秀吉)に300石で召し抱えられてな。それを知った孫六坊っちゃんは長浜で博労の商売をやるようになった。ちょうどその頃、太閤の家臣に加藤景泰様ってお方がいて、この加藤様が孫六坊っちゃんから馬ァ買ったとき、「こいつは責任感のあるいい仕事をする。武士になっても十分使える」って思った。加藤様は孫六坊っちゃんに「オレは羽柴家中の者で加藤景泰という者だ。孫六、おまえは見どころがあるからこれから羽柴に仕えろ」って言って長浜城に連れて行った。
長浜城で孫六坊っちゃんと会った太閤は「確かに見どころがあるな。じゃ、おまえは今日から秀勝(羽柴秀勝)の小姓になれ」って言って孫六坊っちゃんを丹波少将様(羽柴秀勝)の小姓にした。丹波少将様は信長公の四男でな、太閤が信長公に頼んで羽柴家の養子にしたんだ。このとき、孫六坊っちゃんは太閤から加藤姓を名乗るように命じられて姓を岸から加藤に改めた。
ところが孫六坊っちゃん、やらかしちゃうんだよ里菜サン。あれァ天正4年のことだな。太閤の播磨攻めのとき、孫六坊っちゃんは勝手に出陣して戦場に出ちまった。
戦場で勝手なことをやっちまうと、それが大敗につながることだってある。丹波少将様からご報告を受けた高台院様(ねね)はカンカンに怒ってな。「博労なんかで育ちが悪いからこんなことするんです!こんな者、羽柴の家から追い出してしまえばよろしい!」って怒鳴り声出しちまう有り様だった。
でもよ里菜サン、太閤は高台院様とはちょっと見方が違ってな。「孫六はやる気が勝って戦場に飛び込んだんだろう。やる気があるのは良いことだ」って言っておホメになった。で、「孫六は秀勝から引き上げる。今日からオレの直臣として300石」って直臣に取り立てなすった。
里菜サンも知っての通り、太閤も元は百姓だ。博労よりも下の身分だ。太閤はもとから武士の連中でも戦場は怖くてイヤだって露骨に出すヤツをたくさん見て来たからな。そんな連中に比べたら孫六坊っちゃんのほうがずっと気持ちのいいヤツだって思えたんだろう。
2年後の天正6年、孫六坊っちゃんは太閤の直臣として播磨攻めで正式に初陣を果たした。羽柴家臣・加藤孫六の「戦場でびゅー」だった。このとき、敵の首2つ取って300石から600石に加増されたのよ。
4年後、山崎の戦いの戦功で600石から3,000石に加増された。給料5倍だぜ里菜サン。そンだけ孫六坊っちゃんはよく働いたってこったろう。
さらに3年後の天正13年の3月には従五位下左馬頭に任ぜられた。里菜サン、流浪の博労少年がついに官位をもらったんだぜ。これが「加藤左馬頭嘉明」のでびゅーだ。
翌、天正14年。
あれァ確か11月の2日だな。
左馬頭様はこれまでの功績により淡路志智1万5千石の城持大名におなりなすった。博労が城持大名。里菜サン、運だけじゃこうはならねえ。そこには左馬頭様の「責任感」があった。「責任感」があるからいい仕事をする。その仕事に対して太閤が正当な対価を払う。左馬頭様は子供の頃に叩き込まれた「責任感」で城持大名にまでおなりなすった。
左馬頭様のすげえところはこっからだ里菜サン。城持大名になったことにあぐらかかずに淡路水軍を整備して九州攻めや小田原攻めで活躍しなすった。水軍整備してもっといい仕事してやろうってな。これも「責任感」だ、里菜サン。
左馬頭様の淡路水軍は唐入り(朝鮮出兵)でも活躍したんだ。日本軍は朝鮮水軍に散々やられたんだがな、左馬頭様の淡路水軍だけは強かった。
文禄3年、淡路志智から伊予松前6万石。さらには慶長3年、伊予松前10万石。とうとう左馬頭様は10万石の大大名におなりなすった。これも自分を取り立ててくれた太閤のためにいい仕事しようって「責任感」の賜物だ。
里菜サン、考えてもみろよ。
生まれたときからルンペンで、武士じゃなくて博労が人生の「すたーと」だった。そんなお方が、子供の頃に叩き込まれた「責任感」でとうとう10万石の大大名に出世しなすった。
左馬頭様は関ヶ原のあと、同じく伊予松前から伊予松山20万石に倍加増されて松山城を築城するんだが、それは明日の話だ。
今日は左平次がおいなりさんこさえたから、これ食って帰えんな。
里菜サンまた。