【2011年8月24日】
「ハァ~…」
「去年から、ため息が止まりませんねえ」
妻・千代は暗い表情で一豊を見た。
「去年から」
千代の言う「去年」とは天正12年を指す。
この年、羽柴藤吉郎(秀吉)は織田信雄・徳川家康連合軍と戦い、白山林という場所で大敗を喫した。この白山林の戦いの総大将が羽柴孫七郎という者だった。
孫七郎は白山林でのんきに朝食を摂っていた。そこへ、徳川軍の榊原康政隊の奇襲を受けた。
池田恒興、森 長可、その他大勢を戦死させてしまったのだが、孫七郎はその責任はそっちのけにして
「今回、たくさんの将兵が死んでしまいました。兵の補充と新しい将をよこして下さい。出来れば、池田監物を希望します」
と代わりの武将の名指しまでして秀吉に要求した。
秀吉は激怒した。
「おまえはそれでも人かっ!」
と怒鳴ると、孫七郎に殴る蹴るの折檻を加えた。
「ひいぃっ!お、お許しをっ!」
見苦しく涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、孫七郎は裏返った声で許しを乞うた。
「我が家には、ろくな若者がいない…」
秀吉は暗い気持ちになった。
しかし、羽柴の家には秀長とこの孫七郎しかいない。秀長は羽柴家の名家宰だが、孫七郎はボンクラだ。
秀吉はこのボンクラに有能な家臣を付けてやれば多少ましになるだろうと考えた。
秀吉はこの5人を孫七郎の付家老とした。これが、白山林の大敗の後である。
翌年、一豊は近江長浜城を与えられ2万石の大名となった。
長浜藩主・山内一豊は充実した日々であったが、「付家老・山内一豊」は毎日ため息ばかりつく日々だった。
何せ、ボンクラなのである。一豊には教育の仕様が無かった。孫七郎は付家老筆頭・田中吉政が補佐してようやく無難な大名でいられたのだ。
そして何よりも孫七郎のイメージを落としたのは白山林の戦いの一件だ。
「孫七郎どのは人でなし」多くの人間がそのイメージを持ってしまった。
そしてそのイメージが「目の不自由な人に難癖をつけて殺害した」だとか「料理人が不味いものを出したから腕を斬り落とした」だとかいうデマカセの流れるもととなった。
政権のNo.2であることの難しさ。
一豊は「孫七郎様には無理であろう」と思ったが、その通りとなった。孫七郎は、切腹させられた。